フランスの歴史について書いているシリーズ記事・2回めです。
前回の記事では、
- フランス王国最初の王朝・カペー朝
- ヴァロワ朝と百年戦争
- ブルボン朝のアンリ4世とルイ13世
を解説しました。
今回の記事ではフランスの絶対王政の最盛期となったブルボン朝の「太陽王」ルイ14世について解説します。
テスト勉強や学び直しにもご利用ください。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
ルイ14世
1643年、ルイ13世の息子のルイ14世が4歳で即位します。
マザランとフロンドの乱
王が成長するまで、政治は宰相のマザランがおこなっていました。
マザランは先代宰相のリシュリューと同じく、貴族の力を弱くして国王の権力を強くしました。
それをよく思わない貴族たちによってフロンドの乱が起きました。
しかしこの乱が鎮圧された結果、貴族の弱体化、王の権力強化、という流れはより加速します。
フランス絶対王政のピーク
「太陽王」といわれたルイ14世の時代が、フランスの絶対王政の最盛期となります。
ルイ14世は絶対王政を象徴する「朕は国家なり」という言葉を残しています。
絶対王政とは、「王様の言うことは絶対!」というくらい王の権力が絶大だった時期です。
ルイ14世の命令で、ヴェルサイユ宮殿がパリ郊外に建てられました。
絶対王政を象徴する建物のひとつです。
王権神授説
神学者でルイ14世の教育係だったボシュエは、絶対王政を支える理論である王権神授説を確立しました。
「王の権力は神様がくれたもので、奪うなんてとんでもない」という内容です。
ルイジアナの領有
北アメリカのミシシッピ川流域に、王の名前「ルイ」から名付けたルイジアナという植民地をつくりました。
ナントの王令廃止
1685年、ルイ14世は自身がカトリック教徒だったこともあり、アンリ4世がだしたナントの王令を廃止しました。
そのため一部のユグノーは迫害を恐れて国外へ出ていきました。
ユグノーは商工業者が多かったので、フランスの産業は衰退しました。
コルベール
ルイ14世の部下の財務総監コルベールは、フランスの財政をよくするため、国家が経済活動に介入する重商主義政策をとりました。
コルベールは、王立マニュファクチュアという王立の工場をつくったり、うまく機能していなかったフランス東インド会社を再建しました。
フランス東インド会社はこの後、インドのポンディシェリとシャンデルナゴルという町を拠点にして、イギリスとインドの支配権をかけて争いました。
しかし、1757年のプラッシーの戦いで負けて、インド支配から撤退しました。
侵略戦争
ルイ14世は侵略戦争を何回も行いました。
オランダに対してのオランダ戦争や、神聖ローマ帝国に対してのファルツ戦争などを起こしました。
1701年にはスペイン継承戦争を起こし、何か国もかかわる大きな戦争になりました。
スペイン継承戦争
スペインの王家であるハプスブルク家が途絶えてしまいました。
このときルイ14世は、スペイン王家の血を引く自分の孫を、スペイン王フェリペ5世として即位させました。
この王朝をスペイン=ブルボン朝といいます。
ゆくゆくはスペインをワシのものに・・・ぐふふ
オーストリア・プロイセン・イギリス・オランダ・神聖ローマ帝国などがフランスのやりかたに大ブーイング。
1701年にスペイン継承戦争が始まりました。
フランス・スペイン VS イギリス・オランダ・プロイセン公国・神聖ローマ帝国などが二手にわかれて戦いました。
ユトレヒト条約による終戦
スペイン継承戦争は、1713年にユトレヒト条約が結ばれて終結しました。この条約で、フランスとスペインが合併しないという条件付きでフェリペ5世の即位が承認されました。
スペインを合併できないと意味ないじゃん!がーん
また、ユトレヒト条約とその翌年の条約でフランスはいくつかの領土を失います。
フランス領だった北米のニューファンドランドなどはイギリスのものに。
イタリア周辺のフランス領(ミラノ・ナポリ王国・サルデーニャ・南ネーデルラント)はオーストリア=ハプスブルク家のものになりました。
また、この条約でプロイセン公国がプロイセン王国に昇格しました。
プロイセンについては別の記事でくわしくわかります!
たくさんの対外侵略戦争によってフランスの財政は急速に悪化し、絶対王政は衰退していきました。
戦争への介入
1715年にルイ14世が死去した後も、フランスはいろいろな戦争にかかわります。
オーストリア継承戦争
1740年に起きたオーストリア継承戦争にフランスも参戦。
しかしフランスは特に得るものはありませんでした。
くわしくはこちらの記事でわかります。
この戦争の後、オーストリアのマリア=テレジアは娘のマリ=アントワネットをフランスのルイ16世に嫁がせ、フランスと同盟を結びます。
七年戦争
1756年、オーストリアとプロイセンが七年戦争を始めました。
くわしくはこちらの記事をぜひごらんください
ここにもフランスはオーストリア側で参加しました。
同じ時期、フランスはイギリスを相手に、インドと北米の2か所で植民地をめぐる戦争をしていました。
七年戦争も、フランスとイギリス間の戦争も、どっちも1763年のパリ条約で決着がつきました。
フランスは、北米の植民地(カナダとミシシッピ以東のルイジアナ)などを失い、インドでも主導権をイギリスに奪われました。
第二次英仏百年戦争
植民地をめぐり、1688年から1815年の約130年間に英仏がアメリカやインドの植民地でおこした抗争をまとめて「第2次百年戦争(英仏植民地戦争)」と呼びます。
この戦争により、フランスはたくさんの植民地をイギリスに奪われました。
アメリカ独立戦争
1775年、アメリカ植民地は、本国のイギリスに反発してアメリカ独立戦争を起こし、1783年のパリ条約でアメリカ合衆国として独立しました。
アメリカ独立については、くわしい記事があります
この戦争に、義勇兵としてフランスの軍人ラ=ファイエットがアメリカに加勢しました。彼はフランス革命の時代に活躍します。
フランスは、国としても1778年にアメリカ側で参戦しました。戦争にお金を使ってしまったため、国は貴族などからも税金をとることを検討しました。このとき国内がもめたのがフランス革命の引き金となります。
おわりに
フランスは、ブルボン朝のルイ14世の時代に絶対王政のピークを迎えました。
ヴェルサイユ宮殿を建てて「朕は国家なり」とか言っていい調子だったのですが、ナントの王令を廃止したために商業や工業が低迷したり、戦争を連発して、費用はかかったのに得るものは少ないというしんどい結果になります。フランス革命はもうすぐそこです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。