ドイツ周辺(ドイツやオーストリアなど)の歴史についてのシリーズ記事です。高校世界史の範囲が中心です。
前回の記事は、神聖ローマ帝国のはじめから終わりについて。
今回からは、三十年戦争の後くらいからドイツ方面で力をつけてきたオーストリアとプロイセンの歴史についてです。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
記事の読み上げ音声もあります。
オーストリア・ハプスブルク家
まずはオーストリアについてです。
神聖ローマ帝国は、領邦という小さな国の集まりでした。
オーストリアも、その領邦のひとつです。
おさめていたのはハプスブルク家。
15世紀くらいから、ハプスブルク家は神聖ローマ皇帝とオーストリア皇帝をどっちも世襲するようになり、両方の政治を行うようになります。
しかし1648年、三十年戦争の終わりに結ばれたウェストファリア条約で事情がかわります。神聖ローマ帝国内の領邦は事実上、独立しました。そのため「神聖ローマ帝国」の名前と皇帝の地位は形だけのものになります。
神聖ローマが事実上なくなってから、ハプスブルク家はオーストリアの政治に専念します。それによってオーストリアは力をつけていきました。
第2次ウィーン包囲
1683年、オスマン帝国がオーストリアの都ウィーンにせめてきます。これを第2次ウィーン包囲といいます。しかしオスマン帝国はオーストリアに返り討ちにされます。
オーストリアは1699年にオスマン帝国とカルロヴィッツ条約を結び、ハンガリーなどの東欧地域をうばいました。
オスマン帝国についての記事もあるので、理解を深めるためにぜひ読んでみてください。
次はプロイセンの紹介です。
プロイセン公国
プロイセン公国は、16世紀からドイツにあった国です。ホーエンツォレルン家がおさめるブランデンブルク選帝侯国と、東方植民の話で出てきたドイツ騎士団領にルーツをもつ国です。
東方植民については以下の記事で紹介しています。
ブランデンブルク選帝侯国は、神聖ローマ帝国のなかの有力な領邦のひとつでした。
農場領主制(グーツヘルシャフト)
プロイセンでは、ユンカーという貴族の領主が、農民たちを農奴として自分の領地の大農場で働かせていました。これを農場領主制(グーツヘルシャフト)といいます。
十字軍のあと、ヨーロッパの農奴たちは自由を手に入れていましたが、プロイセンなどの一部地域では領主によるしめつけが再び厳しくなっていました。この状況を再版農奴制といいます。
ユンカーたちは農奴を働かせて富をたくわえ、国を動かす中心になっていきました。
十字軍のあとのヨーロッパのようすについてはこちらの記事で詳しく書いてあります。
スペイン継承戦争
1701年、フランスによってスペイン継承戦争が始まりました。オーストリアとプロイセンも、この戦争でフランスと戦いました。
1713年に戦争終結のため結ばれたユトレヒト条約で、プロイセン公国は王国に昇格し、プロイセン王国となりました。
また、オーストリアはフランスからイタリア半島の土地などを手に入れました。
プロイセンのフリードリヒ=ヴィルヘルム1世
スペイン継承戦争が終わった1713年、プロイセン国王に即位したフリードリヒ=ヴィルヘルム1世は絶対王政を行い、軍隊の強化に力を入れたため「兵隊王」と呼ばれました。
オーストリア継承戦争
1740年、オーストリアとプロイセンが戦うオーストリア継承戦争が起きました。
この年、オーストリアでは男性の王位継承者がいなかったため、女性のマリア=テレジアが即位しました。しかし女性が皇帝になることに周りの国が反対し、オーストリア継承戦争が起きます。
オーストリアのハプスブルク家と仲が悪いフランスも参戦し、イギリス・オーストリア VS フランス・スペイン・プロイセンなどの戦いになりました。
オーストリア劣勢のまま、1748年に戦争は終わりました。けっきょくマリア=テレジアが皇帝になることは認められましたが、石炭と鉄の産地であるシュレジエン地方をプロイセンに取られてしまいました。
マリア=テレジアの外交革命
プロイセンからシュレジエン地方を取り返したいマリア=テレジアは、イタリア戦争以来、約200年間対立してきたフランスと仲直りすることにしました。これを外交革命といいます。
▼イタリア戦争についてもっと知りたいかたはコチラの記事をどうぞ▼
仲直りのあかしとして、マリア=テレジアは自分の娘のマリ=アントワネットをフランスのルイ16世に嫁がせました。
このあと、オーストリアとプロイセンはふたたび戦うことになります。
七年戦争
フランスとオーストリアが手を結んで、危機感をもったプロイセンは、「先手必勝!」とオーストリアに戦争をしかけました。1756年にはじまった七年戦争です。
オーストリア・フランス・ロシア・スウェーデン VS プロイセン・イギリスの大規模な戦いになりました。
ロシアは最初オーストリアに味方にしていました。しかし、戦争の途中でロシア皇帝になったピョートル3世は、プロイセンのフリードリヒ2世を尊敬していたので、オーストリアを裏切ってプロイセンに味方しました。
ロシアの裏切りなどもあり、結局オーストリアはプロイセンを倒せず、シュレジエン地方を奪還できませんでした。
七年戦争での各国の動き
同じ時期に、フランスとイギリスはインドと北米の2つの植民地で
- アメリカのフレンチ=インディアン戦争
- インドのプラッシーの戦い
という支配権争いをしていました。
さっき言った戦争はすべて、1763年のパリ条約で終わり、プロイセンとイギリスが勝ちます。
けっきょくオーストリアはシュレジエンを取り返せませんでした。一方で、プロイセンはシュレジエンの鉄や石炭でガンガン栄えていきました。
イギリスはフランスがもっていた北アメリカの植民地(カナダとミシシッピ以東のルイジアナ)やインドの支配権を奪いました。スペインからは北米のフロリダをゲットしました。
また、ロシアのピョートル3世は、すぐに奥さんのエカチェリーナ2世に皇帝の座を追われました。
次は、ロシアが裏切る原因になったプロイセンの王フリードリヒ2世についてです。
プロイセンのフリードリヒ2世
「兵隊王」フリードリヒ=ヴィルヘルム1世の息子フリードリヒ2世(在位1740~1786年)は、啓蒙専制君主としてプロイセンの改革を進めました。
合理的に従来の制度や慣習を変えていこうという考えを啓蒙主義といい、啓蒙主義に基づいた専制政治を行う君主のことを啓蒙専制君主といいます。
独裁はするけど好き勝手せずに、国民のためになる政治をするで!
フリードリヒ2世についてまとめました。
- 啓蒙専制君主であることを示す「君主は国家第一の僕(しもべ)」という言葉をのこしました。
- プロイセンの首都ベルリン郊外の都市ポツダムにロココ様式建築のサンスーシ宮殿をつくりました。
- さきほども書きましたが、1740年のオーストリア継承戦争でシュレジエン地方を手に入れ、また1756年にはオーストリアと七年戦争で戦いました。
- 1772年の第1回ポーランド分割でロシアとプロイセンとオーストリアの共同でポーランドの領土を奪いました。
そしてオーストリアにも啓蒙専制君主があらわれます。
ヨーゼフ2世
1765年に即位した、マリア=テレジアの息子ヨーゼフ2世は啓蒙専制君主としてオーストリアの近代化改革を進めました。
1781年、ヨーゼフ2世は
- 農民に移動、職業選択、結婚などの自由を認める農奴解放令
- カトリック以外の信仰の自由を認める宗教寛容令
を出しました。しかし、ヨーゼフ2世の改革は貴族に反発されて失敗しました。
次はフランス革命や、ナポレオンがおこした戦争のときの二か国の動きです。
フランスのオーストリアへの宣戦布告
フランス革命が起きたさい、オーストリアとプロイセンは共同で「フランス革命に反対!」「フランス王制の廃止も反対!」とうったえました。
この態度をうけてフランスの内閣はオーストリアに宣戦布告し、1792年、プロイセンとオーストリアの連合軍に勝利しました。
ナポレオンがおこした戦争の影響
オーストリアとプロイセンはフランス革命のすえに現れたナポレオンにも敵対しましたが、負けてしまいます。
また、ナポレオンが作ったライン同盟の影響で、神聖ローマ帝国は完全消滅しました。
オーストリア
ナポレオンが皇帝になる前の1796年、、オーストリアはイタリア遠征をしたナポレオンと戦って敗北しました。
1805年のアウステルリッツの三帝会戦でも、ロシアと2国がかりで戦ったのに負けてしまいました。
プロイセン改革
プロイセンは1806年、フランスに負けて結ばされたティルジット条約でポーランドを取られました。
プロイセン国内ではナポレオンに対抗するため、シュタインやハルデンベルクなどの首相がプロイセン改革という近代化政策を進めました。これによって農民解放が行われ、農奴制が廃止されました。
さらに、哲学者のフィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」というタイトルの講演を行い、ドイツの人たちにナポレオンへの抵抗を呼びかけました。
ウィーン会議
1814年~1815年、ナポレオンがかき乱したヨーロッパを立て直すため、オーストリアの首都ウィーンでウィーン会議が開かれました。
開催したのはオーストリア外相のメッテルニヒです。
ウィーン会議には、オスマン帝国を除く全ヨーロッパの国が参加しました。
会議の結果、プロイセンもオーストリアも領土を獲得しました。
またこのときオーストリアを盟主とするドイツ連邦が成立しました。プロイセンもこの中に含まれます。
とはいえドイツ連邦はまとまりがなかったため、「もっとちゃんとした統一国家にしよーぜ!」という意見がしだいに強くなります。
ウィーン体制と神聖同盟・四国同盟
ウィーン会議で決まった、19世紀前半のヨーロッパの体制をウィーン体制と呼びます。
ウィーン体制を維持するために
- 「神聖同盟」
- 「四国同盟」
がつくられました。
神聖同盟は1815年、ロシアのアレクサンドル1世の提唱で作られた同盟で、イギリス・オスマン帝国・ローマ教皇を除く全ヨーロッパの国が参加しました。
その後、イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンによる四国同盟ができました。後にフランスが加わって五国同盟になりました。
政府側は、束縛をいやがって革命をもとめる市民を押さえつけ、絶対王政時代の社会に戻そうとしましたが、もはやムリでした。
自由主義運動
ウィーン体制への反発として、19世紀のヨーロッパでは絶対王政を倒し、自由を求める自由主義運動が起こりました。
具体的には、一部の階級の特権の廃止、憲法や議会をつくること、参政権などを政府に求めました。
- ドイツのブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)
- イタリアのカルボナリ(炭焼党)
などの組織がつくられ、自由主義運動を行いましたが、どちらもオーストリア軍に鎮圧されました。
フランス七月革命の影響
1830年、フランスの国民たち七月革命を起こし、国王がシャルル10世からルイ=フィリップになるという事件がありました。この七月革命の影響で、ヨーロッパ各地で独立運動が起きました。ドイツでも1830年に反乱が起きましたが、メッテルニヒに鎮圧されました。
また、イタリアではカルボナリが蜂起しましたが、オーストリア軍に鎮圧されました。
ドイツ関税同盟
19世紀のドイツではリストという経済学者が、保護貿易を主張しました。
保護貿易は、自国の産業を守るために政府が貿易に介入して、輸入品に関税をかける政策です。
リストの意見に基づいて、1834年にプロイセンをはじめとするドイツ連邦内の国家のあいだでドイツ関税同盟がつくられました。ドイツ関税同盟の間では関税をナシにすることで、イギリスの安い製品に対抗しました。
1848年革命
1848年、またフランス国民が蜂起しました。
フランスで二月革命が起き、ルイ=フィリップの王政が倒れました。
二月革命は、ヨーロッパ全体に影響を与え、各地で革命や民族運動が起きました。この状況を「諸国民の春」とか1848年革命といいます。
おもな出来事は
- ベルリンとウィーンの三月革命
- フランクフルト国民議会
- ハンガリーとベーメンとイタリアの独立運動(民族運動)
などがあり、すべてドイツ連邦に関係しています。
三月革命
プロイセンのベルリンやオーストリアのウィーンでは、市民が1848年3月に三月革命という反乱を起こしました。
オーストリアのウィーン三月革命では、市民たちがメッテルニヒを追放してウィーン体制を崩壊させました。
プロイセンのベルリン三月革命では、市民たちが国王に憲法制定を約束させました。
フランクフルト国民議会
ベルリン三月革命をうけて、1848年の5月から、フランクフルト国民議会が開かれ、オーストリアとプロイセンを含むドイツ連邦の各地域が参加しました。
ここでは憲法制定とドイツの統一について話し合われました。
ドイツのまとまりかたについては
- オーストリアを中心にドイツを統一したい大ドイツ主義
- オーストリアを仲間外れにして、プロイセンを中心にドイツを統一したい小ドイツ主義
の2つの意見が対立しました。小ドイツ主義が優勢でしたが、結局ドイツ統一は達成されませんでした。
ハンガリーとベーメンの独立運動(民族運動)
1848年の3月、オーストリアに支配されていたハンガリーとベーメンで独立運動が起こりました。
ハンガリーのマジャール人たちは、コシュートという政治家をリーダーとして独立を宣言したものの、オーストリアを支援したロシア軍によって鎮圧されました。
ベーメンではチェック人がプラハを中心に蜂起しましたが、オーストリア軍に鎮圧されました。
イタリア統一戦争
1859年、イタリア人によるイタリア統一を目指したイタリア統一戦争が始まり、この戦争で、サルデーニャ王国はオーストリアからロンバルディアを奪いました。
おわりに
三十年戦争のあとドイツ地域ではオーストリアとプロイセンが力をつけ
- スペイン継承戦争では共闘し
- オーストリア継承戦争と七年戦争では争っていました。
ナポレオン戦争のあとのウィーン会議ではオーストリアを盟主として、プロイセンも参加したドイツ連邦ができました。
フランスの七月革命と二月革命をきっかけにドイツでも自由や独立を求める運動が活発になりました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回は1862年にプロイセンの首相にビスマルクが就任し、武力でドイツ帝国をつくっていく様子について説明していきます。