高校世界史の範囲を中心にしたフランスの歴史について数回に分けて解説していきます。今回は3回めです。この記事ではフランス革命について適度にくわしく、かんたんに解説していきます。
ルイ14世の時代、たくさんの戦争にかかわったため、フランスの財政は急速に悪化しました。
絶対王政は衰退して、ルイ16世の時代にフランス革命が起きます。
フランスでは約10年の間に
- 国民議会の時代
- フランス革命の始まりであるバスティーユ牢獄襲撃事件
- 人権宣言や1791年憲法の制定
- 立法議会の時代(オーストリアに宣戦布告・8月10日事件と王権の停止)
- 国民公会の時代
- ルイ16世を処刑して第一共和政を開始
- 恐怖政治
- テルミドール9日のクーデタで恐怖政治が終了・1795年憲法が制定
- 総裁政府の時代(ナポレオン=ボナパルトがブリュメール18日のクーデタをおこして終了)
などが起きました。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
国民議会の設立まで
まず、平民である第三身分の人たちが、三部会という議会から抜けて、独自に国民議会をつくるまでのいきさつを説明します。
ルイ16世時代の財政改革
ルイ14世の時代のあと、フランスの財政は急速に悪化しました。そのため18世紀末のフランス王ルイ16世の時代に財政改革が行われました。
財政の赤字をなんとかしなくてはならぬ
まずテュルゴーが財政改革に挑戦しましたが、失敗して辞職。その後をついだネッケルは、免税となっていた第一・第二身分からも税金をとることで財政をたてなおそうとしました。
いきなりでてきた第一・第二身分という言葉について、解説します。
アンシャン・レジーム(旧制度)の三つの身分
当時のフランスには
- 第一身分(聖職者)
- 第二身分(貴族)
- 第三身分(平民)
の3つの身分がありました。このうち第一身分と第二身分は、特権身分として税金が免除されていて、第三身分だけに税金が課されていました。
第三身分(平民)は、さらに農民と市民に分かれていて、市民のなかには裕福なブルジョワ(有産市民)がいました。
フランスの全人口のうち98%が第三身分、85%が農民でした。第一身分と第二身分の特権身分は全人口のうち2%しかいないのに、フランスの土地の40%を持っていました。そのうえ税金をとられないという、不公平な状態でした。
16世紀からフランス革命前までのフランスの政治・社会制度のことをアンシャン・レジーム(旧制度)といいます。
三部会の開催
ネッケルは1789年5月に、フランスの身分制議会である三部会を175年ぶりにひらき、ここで免税特権の廃止を決めようとしました。
その前の三部会は、国王ルイ13世と宰相リシュリューの時代の1614年に開かれたのが最後になっていました。
しかし、三部会は1つの身分グループが1票をもつ身分別議決法でした。3票のうち、第一・第二身分の1票づつが反対なので、何回やっても否決されます。
このため、第三身分は1人1票による多数決を提案しますが、とうぜん、第一・第二身分は反対します。三部会は平行線のまま、話し合いがすすみませんでした。このあと第三身分のひとびとは行動に出ます。
この年、第三身分代表のひとりであるシェイエスは『第三身分とは何か』というパンフレットを作り、フランスの身分制度を批判しました。
啓蒙思想による国民感情の変化
ここで、フランス革命が起きた背景を整理しておきます。
フランス革命の要因には、アンシャン・レジーム(旧制度)による身分の格差だけではなく、啓蒙思想による人々の考えかたの変化もあります。
18世紀のヨーロッパ、とくにフランスでは啓蒙思想がひろまっていました。
啓蒙思想とは、「神様が決めた」とか「昔から決まっているから」とかいう意見は無視して、合理的・理性的に旧来の政治や社会制度を批判しようぜ!という考え方です。
フランスの啓蒙思想家には
- 1748年に『法の精神』を刊行したモンテスキュー
- 『哲学書簡』を刊行したヴォルテール
- 1755年に『人間不平等起源論』、1762年に『社会契約論』を刊行したルソー
などがいます。
また、1783年にアメリカ13植民地がイギリスから独立したこともあり、人びとは国の支配から自由になりたい、という思いを強くしました。
国民議会の結成と球戯場(テニスコート)の誓い
1789年6月、話し合いがすすまない三部会に参加していた第三身分の代表たちは、三部会を離れて、独自に国民議会を結成しました。
俺たちこそが国民の代表だ!
国民議会のメンバーは、球戯場に集まって「憲法が制定されるまで国民議会を解散しない!」と誓いました。これを球戯場(テニスコート)の誓いと呼びます。
憲法は当時の国家権力である王や特権身分をしばり、好き放題できないようにする法律です。
このあとの国民議会の時代には
- バスティーユ牢獄襲撃事件(フランス革命のはじまり)
- ヴェルサイユ行進
- ヴァレンヌ逃亡事件
などの事件が起きました。
バスティーユ牢獄襲撃
国民議会が結成されたあと、国王は特権をなくそうとして、第三身分に人気のあったネッケルをクビにしました。同時に、第三身分たちを制圧するための兵隊を宮殿に集めはじめました。
これを知ったパリの市民たちは怒って、1789年7月にフランス絶対王政の象徴であるバスティーユ牢獄を襲撃しました。これがフランス革命の始まりです。
バスティーユ牢獄襲撃事件を知った農民たちも、流れで領主の家を襲ったりしたので、フランス全土での暴動に発展しました。
俺たちだってガマンしてたんじゃー!
国民議会は農民の暴動をおさえるため、農奴制・十分の一税・死亡税などの封建的特権の廃止を宣言しました。これにより農民の暴動はおさまりました。
ヴェルサイユ行進
バスティーユ牢獄襲撃事件から3ヵ月後、パンの値上がりに怒った約7千人のパリの女性たちが、国王が暮らすヴェルサイユ宮殿に向かって行進して、宮殿に乱入しました。この事件をヴェルサイユ行進といいます。このあと国王ルイ16世一家はパリに連れていかれ、革命派の監視下におかれました。
ヴァレンヌ逃亡事件
国王と国民議会の橋渡しをしていたミラボーが死去して、国王はフランスにいるのが怖くなりました。そして1791年6月、国王一家はパリからオーストリアへ逃げようとしました。しかし計画は失敗し、国王一家はパリへ連れ戻されました。これをヴァレンヌ逃亡事件といいます。
国民議会のはたらき
人権宣言
バスティーユ牢獄襲撃から約1ヶ月後、国民議会は国民の自由や権利について書いた人権宣言を制定しました。
人権宣言の起草(おおもとになる案を作ること)には、アメリカ独立戦争に義勇兵として参加したラ=ファイエットが大きくかかわりました。
国民議会は他にも、長さに「メートル」重さに「キログラム」を使うメートル法をはじめました。
1791年憲法
国民議会は、フランス初の憲法である1791年憲法を制定し、立憲君主政や納税額による制限選挙などが定められました。
球戯場(テニスコート)の誓いで「憲法が制定されるまで国民議会を解散しない!」といっていた国民議会は、憲法が制定できたらすぐ解散しました。
立法議会
憲「法」にもとづいて集まったわれらは「立法議会」!
1791年、国民議会が解散した後、1791年憲法で制定した制限選挙が行われて、選ばれたメンバーによる立法議会ができます。しかし立法議会の中ではフイヤン派とジロンド派が派閥争いをしていました。
フイヤン派は、憲法に基づく君主政をめざす立憲君主派の人たちでした。憲法で国王の権力を制限しつつ、国王の存在は残そうとしました。
いっぽうジロンド派は、「国王はいらない」と考える穏健共和派の人たちでした。
対立の結果、政治の主導権を握ったのは、国王を不要だと考えるジロンド派でした。
以前からオーストリアとプロイセンは共同で「フランス国王の地位を残せ!」と主張していました。ジロンド派内閣はフランス国王の排除に邪魔なオーストリアに宣戦布告しました。
8月10日事件
フランスはオーストリアとの戦争を始めました。立法議会の呼びかけにより義勇兵たちが参戦しましたが、戦況はよくありませんでした。
フランスの国民たちは「敵国になったオーストリアとフランス王家が協力してるんじゃないか?」と疑うようになります。
王妃のマリー=アントワネットはオーストリア出身だもんなあ
1792年8月10日、サンキュロットと呼ばれる都市労働者たちや義勇兵が、普通選挙の実施や王権の停止などを求めて、宮殿を襲撃して国王を捕らえて、塔に幽閉するという8月10日事件が起こりました。
貴族などの上流階級はキュロット(半ズボン)をはいていたのに対し、庶民たちは長ズボンをはいていたのでサンキュロット(半ズボンじゃないやつ)と呼ばれました。
はげしい銃撃戦となった8月10日事件のあと、立法議会は王権の停止を宣言し、財産に関係なく男性全員が参加できる男性普通選挙をすることを約束したあと、立法議会を解散しました。
国民公会
立法議会がした約束に基づき、フランス初の男性普通選挙が実施され、選ばれたメンバーによって、1792年に国民公会という議会がつくられました。
ルイ16世の処刑と第一共和政の開始
国民公会で主導権をもったジャコバン派(山岳派)は1793年1月にルイ16世を処刑し、国王がいない第一共和政を始めました。
第1回対仏大同盟
フランス怖い・・・
国王を処刑してしまったフランス革命を警戒し、ヨーロッパの各国は、イギリスのピット首相を中心に第1回対仏大同盟を結成しました。
恐怖政治
ジャコバン派(山岳派)のロベスピエールを中心に、恐怖政治と呼ばれる独裁政治がはじまりました。革命のさまたげになるとされた人たちが、断頭台(ギロチン)でたくさん処刑されました。
国民公会の中に公安委員会と呼ばれる組織がおかれ、実質的な政府のようなはたらきをしました。
国民公会は
- 封建地代の無償廃止を行い、農民たちが土地代を払わなくていいようにしました。これによりフランスの農民たちが土地を得ました。
- 物価上昇を押さえる最高価格令を制定しました。
- 新しい暦である革命暦を制定しました。
- 国民の兵役を義務づける徴兵制を実施しました。
- 1793年憲法を制定し、男性普通選挙の実施を定めました。しかし、この憲法は実施されませんでした。
テルミドール9日のクーデタと1795年憲法
1794年、独裁に反対する人たちによってテルミドール9日のクーデタが起こり、山岳派の指導者であったロベスピエールや仲間たちが処刑されました。
次の年、国民公会は1795年憲法を制定しました。
この憲法では男性普通選挙は廃止になり、富裕層を優遇する制限選挙制が復活しました。また独裁を防ぐため、行政権は5人の総裁からなる総裁政府がもつことが決まりました。
この憲法に基づいて、総裁政府が発足し、国民公会は解散しました。
総裁政府
総裁政府の時代は、フランスの社会は不安定で、バブーフの陰謀という事件が起きました。これはバブーフという思想家が反乱を計画したものの、未然に捕まった事件です。
そんななか、軍人のナポレオン=ボナパルトが人気と権力を得るようになります。
ナポレオン=ボナパルト
ナポレオンのイタリア遠征
1796年、ナポレオンはイタリア遠征の指揮をまかされました。そして、オーストリアとイタリアのサルデーニャ王国の連合軍に勝ちました。この勝利によって、ヨーロッパ諸国が結んだ第1回対仏大同盟は崩壊しました。
この後も、同盟のどこか1国が負けたり和解すると同盟は崩壊します。
ブリュメール18日のクーデタ
ナポレオンはさらに1798年、エジプト遠征を政府に提案し、指揮をまかされました。エジプトはイギリスがインドに行くときに通る場所であり、ここを占領してイギリスにダメージを与えるのが目的でした。
しかしイギリスの海軍提督ネルソンにナポレオンは敗北し、この勢いでフランスに反発する国々は1799年に第2回対仏大同盟を結成しました。
あかん、総裁政府に怒られる!こうなったら怒られる前に総裁政府を倒すで!
負けたナポレオンはこっそりフランスに帰国し、1799年にブリュメール18日のクーデタを起こして総裁政府を打倒し、自分をリーダーとする統領政府をつくりました。
1789年に始まったフランス革命は、このクーデタで終結します。
フランスの歴史クイズ(フランス革命まで)
おわりに
フランスは約10年の間に
国民議会の設立→バスティーユ牢獄を襲撃→人権宣言や1791年憲法の制定→立法議会が成立→オーストリアに宣戦布告→国民公会が成立→ルイ16世を処刑し、第一共和政を開始→恐怖政治→テルミドール9日のクーデタで失脚→1795年憲法が制定され総裁政府が発足→ナポレオン=ボナパルトがブリュメール18日のクーデタで統領政府をたてる
と、非常にたくさんの出来事がありました。
次回は統領政府をつくったあとのナポレオンについてです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
でも、イギリスでもピューリタン革命で国王を処刑したことがありましたけどね・・・