高校世界史の範囲を中心にしたフランスの歴史について、数回に分けて書いていっています。
前回はヨーロッパ全体の出来事として、ナポレオン=ボナパルトの時代について説明しました。
今回はナポレオン失脚後のフランスの歴史について解説していきます。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
ブルボン朝の復活・シャルル10世の時代
ナポレオンが失脚した後、ヨーロッパをたてなおすためにウィーン会議という国際会議が開かれ、いろいろなことが決まりました。そこで決まった当時のヨーロッパの社会や制度とかをウィーン体制といいます。
フランス国内では、1814年にルイ18世が即位し、ブルボン朝が復活しました。その後1824年には、ルイ18世の弟シャルル10世が即位しました。
シャルル10世は、未招集の議会の解散(=議会を招集前に解散させたこと)や、選挙資格の制限、言論統制の強化など、絶対王政に戻そうとする反動政治を行いました。
同時に、国民の関心を外にそらすため、1830年にアルジェリア出兵を行いましたが、国民の不満は確実にたまっていきました。
だまされないぞ!国民をなめるな!
七月革命による国王交代
1830年、七月革命が起き、学生や市民、労働者たちが暴動を起こしました。シャルル10世はイギリスに亡命して、ブルボン朝は終わりました。新国王にオルレアン家のルイ=フィリップが即位して七月王政が始まりました。
フランスのロマン主義の画家ドラクロワは、七月革命をテーマに「民衆を導く自由の女神」という絵を描きました。
七月革命の影響で、ヨーロッパ各地で独立運動が起きました。オランダに併合されていた南ネーデルラントという地域がベルギーとして独立しました。ポーランド・ドイツ・イタリアでも支配者への反抗や独立のために国民が蜂起しましたが、鎮圧されました。
二月革命による七月王政の停止
新たなフランス国王ルイ=フィリップは、制限選挙の実施など、富裕層を優遇した政治を行いました。
民衆は選挙法改正運動を起こして、制限選挙ではなく男性普通選挙を行うように求めたのですが、お金持ちファーストなルイ=フィリップは要求を無視しました。そのため1848年、パリで労働者や学生らが蜂起し、二月革命を起こしました。
もう国王なんかいらん!
二月革命によって七月王政は倒され、国王ルイ=フィリップはイギリスへ亡命しました。これによりフランスは再び国王がいない時代に突入しました。
フランスの二月革命は、ヨーロッパに大きな影響を与え、各地で革命や民族運動が起きました。この状況を「諸国民の春」、もしくは1848年革命といいます。
第二共和政
1848年2月、二月革命で国王ルイ=フィリップが亡命した後に始まった、王のいない共和政を第二共和政といいます。
臨時政府
二月革命の直後、フランスでは臨時政府という政府が発足しました。
臨時政府に入閣した社会主義者のルイ=ブランは、男性普通選挙の実施を約束したり、失業者の働き口として国立作業場を設立するなどの改革を行いました。
社会主義は、ざっくりいうと労働者や失業者を助けようとする考え方です。
ルイ=ブランは労働者ばかりを尊重したため、産業資本家や農民たちの支持を失いました。そのため、1848年4月の四月普通選挙で、ルイ=ブランたちの社会主義勢力は負け、国立作業場は閉鎖されてしまいました。
国立作業場が閉鎖されたため、労働者たちが六月蜂起という暴動を起こしましたが、政府によって鎮圧されました。
ルイ=ナポレオンの第二帝政
四月普通選挙や六月蜂起と同じ年の1848年12月、大統領選挙でナポレオンの甥のルイ=ナポレオンが当選しました。
こういうとき有名人ってトクだよなー
ナポレオン大統領は、1851年クーデタを起こして議会を武力で解散させました。これにより第二共和政は終了しました。
国民投票による賛成をもらい、ルイ=ナポレオンは1852年に皇帝ナポレオン3世として即位しました。以降のフランスの政治体制を第二帝政と呼びます。
第二帝政の時代には、パリ改造というフランス最大の都市整備がおこなわれました。道路を整備したり、上下水道がつくられて、現代のパリの原型ができあがりました。
ナポレオン3世はナポレオン1世と同じく、ガンガン海外進出を行いました。
- クリミア戦争(1853~1856)
- アロー戦争(1856~60)
- インドシナ出兵(1858~67)
- イタリア統一戦争(1859)
などの戦争に参加し勝利することで、国民からの支持を保ち、フランスの領土を拡大していきました。
しかし、メキシコ出兵(1861~67)は失敗し、ナポレオン3世の勢いはだんだん落ちていきます。
最終的に、1870年に始まったプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)で、ナポレオン3世は敗れて捕虜となってしまいました。これにより第二帝政は崩壊しました。
大河ドラマ「青天を衝け」のなかで主人公の渋沢栄一がフランスへ行くシーンがあります。栄一はフランス滞在中にナポレオン3世を見かけたり、日本からの手紙によって主君の徳川慶喜が大政奉還(1867年)を行ったことを知ります。世界史の横のつながりを知る手がかりとして書いておきます。
第三共和政のスタート
臨時政府
ナポレオン3世が捕虜になったことを受けて、フランスでは1875年に臨時政府が発足し、同じ年に第三共和国憲法が制定されました。
ふたたびフランスは王がいなくなり、第三共和政が始まりました。第三共和政は第二次世界大戦中の1940年まで続きました。
パリ=コミューン
しかし普仏戦争をフランスに不利な条件で終わらそうとした臨時政府に対して、労働者たちは怒り、1871年に史上初の労働者による自治政府であるパリ=コミューンを結成しました。
パリ=コミューンは、ドイツの支援を受けた臨時政府軍と激しい市街戦を数か月続けたあと、崩壊しました。
19世紀末のフランス国内
19世紀末のヨーロッパは、武力で植民地支配を広げようとする帝国主義の時代になっていきます。この時代のフランス国内の出来事です。
ブーランジェ事件
陸軍大臣ブーランジェと彼を支持する人たちが、議会や政府に反対する政治運動を起こしました。「ブーランジェはクーデタを起こして政権を倒す」といううわさが流れましたが、結局彼はクーデタを起こさず亡命して、この政治運動は終息しました。この一連の騒動をブーランジェ事件といいます。
ドレフュス事件
ユダヤ系の将校ドレフュスは、ドイツのスパイ容疑で逮捕され有罪となりましたが、無罪を主張しました。のちに真犯人が別にいることが分かりましたが、フランス軍はそのことを隠していました。
フランスの作家ゾラなどのドレフュス擁護派が「ユダヤ人に対する差別だ!」と軍を批判して、裁判のやり直しを求めました。一方で、ユダヤ人を嫌う反ユダヤ主義の人もフランスにいたため、ドレフュス事件をめぐりフランスの世論は分かれてしまいました。
ドレフュスは最後には無罪となるのですが、この事件によってフランス国内のユダヤ人差別が浮き彫りとなりました。ユダヤ人たちは自分たちに対する差別意識にショックを受け、パレスチナにユダヤ人国家をつくることを目指すシオニズム運動を強めていきました。
社会主義の活発化
19世紀末のフランスでサンディカリズムという社会主義運動がはじまりました。議会や政党を否定し、大規模ストライキなどの労働者の直接行動によって社会革命を成し遂げようとする運動です。
一方、「議会を通じて革命を成し遂げよう」と考える人たちがフランス社会党(統一社会党)を結成しました。
また、社会主義者などを中心に国家の宗教からの中立を求める声が強くなり、1905年に政教分離法がつくられました。
このあと、時代が前後しますが、フランスが19世紀にアジアやアフリカを植民地化した流れをまとめます。
フランスのアジア侵攻
フランスはアジアのベトナムやカンボジア、ラオスにフランス領インドシナ連邦をつくり、植民地にしました。
また、中国(清)からも利権や土地をもぎとりました。
ナポレオン3世のインドシナ出兵
1858年に当時のフランス皇帝ナポレオン3世がインドシナ出兵をおこないベトナム(阮朝)に侵攻してベトナム南部を占領しました。ベトナム側は中国出身の軍人だった劉永福が農民を集めて黒旗軍をつくり、フランスに抵抗しました。
フランスのアジア侵攻はとまらず、1863年、ベトナムの隣のカンボジアを保護国化しました。
保護国とは、いちおう独立しているものの、外交権や財政、軍事権などの国の主権を他国に取られて支配されている状態の国のことです。
支配している国を宗主国といい、宗主国が支配下の国に行使できる権利を宗主権といいます。
1883年、フランスはベトナムを保護国にしました。
清仏戦争
ベトナムは清の朝貢国として清の下についていました。
▼「朝貢」についてもっと知りたいかたはコチラの記事をどうぞ▼
フランスによるベトナムの保護国化に対し、清はベトナムの宗主権(支配下の国に行使できる権利)を主張し、1884年に清仏戦争が始まりました。
ベトナムは中国の傘下だ!フランスが勝手なことすんな!
清仏戦争はフランスの勝利。講和条約として天津条約が結ばれ、敗れた清はベトナムの宗主権を放棄させられました。フランスはベトナムの保護国化が認められただけではなく、中国南部での特権を得ました。
また、1898年、フランスは清から中国南部、広東省の広州湾を租借という形で支配しました。
フランス領インドシナ連邦
1887年、ベトナムやカンボジアを合わせて植民地のフランス領インドシナ連邦がつくられました。1889年にはラオスが編入され、フランス領インドシナ連邦はさらに広がりました。
アフリカ侵攻
ヨーロッパ各国は1880年ごろから、アフリカを取り合うアフリカ分割をはじめましたが、その前に、フランスはシャルル10世が19世紀前半にアルジェリアを植民地化していました。
1881年にはアルジェリアの隣のチュニジアを保護国化しました。
アフリカ横断政策
19世紀後半のフランスのアフリカ進出政策を、アフリカ横断政策といいます。東西の横のラインで支配をすすめる政策です。
フランスはアフリカ東側のジブチやマダガスカル、ソマリランド(の一部)、西側のサハラ砂漠などを領有して、アフリカ横断政策をすすめていきました。
ファショダ事件
フランスのアフリカ横断政策は、南北のタテのラインでアフリカ支配をすすめていたイギリスの縦断政策とぶつかりました。1898年スーダンのファショダで両軍が対峙し、武力衝突が発生するかと思われましたが、フランスがイギリスに譲歩して衝突を回避しました。これをファショダ事件といいます。
英仏協商
イギリスとフランスはこのあと接近し、1904年には英仏協商が結ばれ
- イギリスがエジプトを支配すること
- フランスがモロッコ(アルジェリアの隣)を支配すること
をおたがいに認めました。
しかし、このあとモロッコをめぐってフランスはドイツと対立しました。
モロッコ事件
フランスとドイツは、モロッコをめぐって2度衝突しました。これをまとめてモロッコ事件といいます。
1回目は1905年、モロッコのタンジールの港にドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が艦隊を率いて現れ、モロッコの独立を宣言した事件です。
フランス・ドイツの武力衝突が起きると思われましたが、解決のための国際会議が開かれました。会議の結果、フランスのモロッコ進出が黙認されました。
事件の2回目は1911年です。またヴィルヘルム2世がモロッコの港町アガディールに軍艦を派遣しました。
再び戦争の危機となりましたが、英仏協商を結んでいたイギリスがフランスを支援したこともあって、ドイツは撤退し、フランスは1912年にモロッコを保護国化しました。
このあとフランスは第一次世界大戦に突入します。
おわりに
ナポレオンの失脚後、フランスのトップは
- シャルル10世(七月革命で失脚)
- ルイ=フィリップの七月王政(二月革命で失脚)
- 臨時政府のルイ=ブラン(四月普通選挙で失脚)
- ルイ=ナポレオンの第二帝政(普仏戦争で失脚)
などと移り変わりました。
フランスの七月革命や二月革命にヨーロッパの各地も感化されて革命や市民運動が起きました。
また19世紀後半からアジアやアフリカへの侵攻が本格化しました。
フランスは、アジアではフランス領インドシナ連邦、アフリカでは横断政策をかかげてアルジェリア、チュニジア、モロッコ、ジブチやマダガスカル、ソマリランド(の一部)、西側のサハラ砂漠などを領有しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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