ロシア・北欧・東欧の歴史(3)ロシア革命・ソ連誕生について

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北欧・東欧・ロシアの歴史

高校世界史の範囲を中心にしたロシア・北欧・東欧の歴史について数回に分けて解説していきます。

今回は3回目です。モスクワ大公国のあとにできたロシアのロマノフ朝を中心にある程度くわしく、そして簡単に説明します。

前回は1881年にアレクサンドル2世が暗殺されたとこで終わってました。

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ロシア革命前のロシア

ロシア革命前の19世紀末、ロシアとフランスの間で露仏同盟が締結されました。この同盟でロシアはフランスからお金を借りて産業革命に成功しました。

また、このお金でロシアは1891年からシベリア鉄道の建設を始め、1905年に完成しました。

線路
線路

日露戦争と第1次ロシア革命

戦争

1900年に中国の清で起きた義和団事件は、日本やロシアなどの8カ国共同出兵によって鎮圧されました。

ロシアは義和団事件の際に中国東北地方(満州)を占領し、事件後もそのまま居座ったため、中国東北部を狙っていた日本と仲が悪くなり、1904年に日本がロシアに日露戦争をしかけました。

1905年の日本海海戦で、ロシアが日本に敗れ、戦況が不利になったころ、ロシア国内で血の日曜日事件が起きました。民主化と戦争中止を求めてデモを行った市民たちにロシアの軍隊が発砲した事件です。

この事件で民衆は怒り、ロシア各地で暴動・ストライキが起きるようになりました。これが第1次ロシア革命です。

また、労働者たちはロシア語で「会議」という意味のソヴィエト(評議会)を結成するようになりました。

このソヴィエトは、第1次ロシア革命では労働者や兵士の代表が集まる組織となっていました。

ロシアは、日露戦争を続けられなくなりました。1905年、アメリカ大統領セオドア=ローズヴェルトの仲介で、日本とロシアはポーツマス条約を結び、戦争を終わらせました。

十月宣言

日露戦争が終わった後も第1次ロシア革命は続いていました。そこで当時のロシア皇帝ニコライ2世は民衆を落ちつかせるため、ウィッテが起草した十月宣言を発表しました。

十月宣言では、立法権を持つドゥーマ(国会)の開設や、憲法を制定し、皇帝の独裁ではなく憲法に基づく政治を行うことが約束されました。

ウィッテは1905年に首相になって改革を推進し、第1次ロシア革命は収束へ向かいました。

しかし第1次ロシア革命が収束に向かうと、ロシア皇帝は再び専制政治を行うようになりました。

1906年にウィッテのあとに首相になったストルイピンは、農村共同体であるミールの解体といった政策を進めましたが、改革は失敗し、ロシア国内はさらに混乱しました。

第2次ロシア革命

ただ単に「ロシア革命」と呼ぶ場合もあります。

  • 二月革命
  • 四月テーゼ
  • 十月革命

までが、同じ1917年に起こりました。

十月革命をロシア革命という場合もあるし、社会主義政権ができるまでをロシア革命ということもあります。

二月革命

王政廃止
王政廃止

第一次世界大戦中の1917年、当時のロシアの首都ペトログラードで、民衆が蜂起してデモやストライキが起きました。これに政府に反対する兵士たちが合流して革命に発展しました。

ロシアの首都はペテルブルクといわれていましたが、第一次世界大戦がはじまると、敵国であるドイツ語由来の「ペテルブルク」から、ロシア語読みの「ペトログラード」に変わりました。

労働者や兵士はソヴィエト(評議会)を結成し、自分たちの要求を主張した結果、皇帝ニコライ2世は退位し、300年以上続いたロマノフ朝が滅亡しました。これをロシア二月革命と呼びます。

ロシア二月革命が起きた時、ロシアの古い暦(ロシア暦)では二月でしたが、現在の暦では三月にあたるため、三月革命ともよばれます。

臨時政府とソヴィエト

帝政が終わり、ロシアは君主(国王や皇帝)のいない共和政の時代を迎えました。

皇帝の退位後、ロシアでは立憲民主党が中心になって臨時政府が発足しました。

当時ロシアには立憲民主党社会革命党メンシェヴィキボリシェヴィキの4つの政党がありました。

このうち社会革命党・メンシェヴィキ・ボリシェヴィキは社会主義の考え方を持っていました。

ロシア国内では社会革命党メンシェヴィキが中心のソヴィエトと、立憲民主党が中心の臨時政府という2つの権力が存在していました。

第一次世界大戦の継続を主張する臨時政府に対し、ソヴィエトは即時講和を主張しました。

4つの政党について

立憲民主党

比較的裕福な人たち(ブルジョワ階級)が支持基盤でした。

社会革命党

1901年にナロードニキの流れをくむ社会革命党が結成されました。ナロードニキは19世紀後半に「ヴ=ナロード(人民のなかへ)」といって革命を目指した人たちです。こちらは農民たちに支持されていました。

メンシェヴィキ・ボリシェヴィキ

19世紀末期にロシア社会民主労働党が結成されましたが、のちにボリシェヴィキメンシェヴィキの二つに分裂しました。

「多数派」という意味のボリシェヴィキレーニンが指導者です。名前は「多数派」ですが、少数の急進的な革命家による武装革命を主張しました。

メンシェヴィキはのほうは、ブルジョワ階級(富裕層)と協力して穏健的な革命を目指そう、と主張しました。

レーニンの四月テーゼ

そんな中、臨時政府にもソヴィエトにも属さない、ボリシェヴィキの指導者レーニンが「四月テーゼ」を発表し、「臨時政府を倒し、権力をソヴィエトに集め、戦争の即時講和を実現しよう」と呼びかけました。

しかし臨時政府はこの主張を受け入れずにボリシェヴィキを弾圧し、レーニンは亡命しました。

逃げる

十月革命

レーニン率いるボリシェヴィキ武装蜂起して臨時政府を倒し、権力を奪いました。これをロシア十月革命といいます。

臨時政府の首相だった社会革命党ケレンスキーは亡命しました。

二月革命と同じく、十月革命も十一月革命といわれることがあります。

全ロシア=ソヴィエト会議

十月革命のあと、レーニンは全ロシア=ソヴィエト会議を開き、社会主義政権であるソヴィエト政権の樹立を宣言しました。

全ロシア=ソヴィエト会議では、レーニンが起草した「平和に関する布告」と「土地に関する布告」が採択されました。

平和に関する布告」は、第一次世界大戦の全ての交戦国に対し、無賠償・無併合・民族自決を原則とした即時講和を呼びかける内容です。

土地に関する布告」は、地主の土地を没収して国有化し、農民に分配する、社会主義的な政策を宣言する内容でした。

ボリシェヴィキによる一党独裁

支配
支配

レーニンが権力を握った後、ロシアでは選挙が開かれましたが、レーニン率いるボリシェヴィキ社会革命党に敗れ、少しの票しか得られませんでした。

1917年11月には、先ほどの選挙に基づく憲法制定会議が開かれましたが、すぐにレーニンに武力で解散させられ、ロシアではボリシェヴィキによる一党独裁政権が成立しました。

レーニンは、政権を守るための警察組織としてチェカ(非常委員会)を設置し、反乱分子を取りしまりました。

第一次世界大戦からの離脱

条約・和解
条約

一党独裁体制のもと、レーニンは1918年3月にブレスト=リトフスク条約を結びました。これはロシア全権トロツキーが結んだ、ドイツなど同盟国との単独講和条約です。こうしてロシアは第一次世界大戦から離脱しました。

さらにレーニンは、トロツキーを指導者とする赤軍(せきぐん)を設置しました。

その後ボリシェヴィキはロシア共産党と名前を変え、モスクワへ遷都しました。

第一次世界大戦後の東欧

東欧の国は、第一次世界大戦後、次々に独立を達成しました。エストニア、ラトヴィア、リトアニア、ポーランド、フィンランド、ハンガリー、チェコスロヴァキアなどです。

背景には、アメリカ大統領ウィルソンが発表した十四カ条(の平和原則)の中で示された「民族自決」という考え方があります。各民族がそれぞれの意志で行動し、決定しようという内容です。

戦勝国が東欧諸国の独立を認めたウラの理由は、社会主義国ロシア(1922年からはソ連)との「壁」として利用し、社会主義が自国の領土へ拡大しないようにするためでした。

内戦と対ソ干渉戦争

進軍
進軍

第一次世界大戦後のロシア国内では、レーニンの独裁に反発する人たちの反革命軍(白軍)と、ソヴィエト政権がつくった赤軍との内戦状態となりました。

1918~1922年、内戦状態のロシアに、諸外国が武力干渉してきました。これを対ソ干渉戦争と呼びます。各国はロシア革命の影響が広がることを警戒し、ソヴィエト政権を倒そうとしました。

欧米や日本は、ロシア軍の捕虜となったチェコ兵の救出を口実に、共同でシベリア出兵を行い、チェコ兵捕虜の救出に成功しました。

ただし、目的をはたした後も、日本はシベリアの占領を続けました。

ポーランド=ソヴィエト戦争

また、1918年に独立を果たしたポーランドは、1920~1921年に、内戦中のロシアに侵攻してソヴィエト=ポーランド戦争を行いました。勝利したポーランドに、ロシアは領土の一部を奪われました。

この戦争を勝利に導いたポーランドのピウスツキは、国民からの人気を獲得し、次第に独裁体制を築くようになりました。

戦時共産主義

レーニンは、内戦を乗り切るために戦時共産主義という政策をとり、農民から穀物を強制的に徴収し、都市の住民や兵士に配給制で渡しました。

しかし、このやり方は農家などのやる気をそぎ、農業や工業の生産量が低下しました。

反省したレーニンは、対ソ干渉戦争の終わりかけの時期に新経済政策(ネップ)を実施し、穀物の徴発をやめたり、小規模な私企業や一部の農作物の自由販売を認めたりしました。

新経済政策によってロシア経済は回復に向かい、戦前の水準に戻りました。

また、1919年、レーニンは世界各国の革命を指導するためコミンテルンという組織を設立しました。

そうこうしているうちに反乱軍の鎮圧が終わり、外国勢力も撤退していきました。

ソ連誕生

1922年、ロシア・ウクライナ・ベラルーシ(白ロシア)・ザカフカースの4つの共和国が連合してソヴィエト社会主義共和国連邦ソ連ソ連邦)が誕生しました。

1924年には、ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法が制定されました。

ドイツは1922年にラパロ条約を結び、最初にソ連を承認しました。

その後イギリス→イタリア→フランス→日本が順に承認し、1933年にはアメリカがソ連を承認しました。そしてソ連は1934年に国際連盟に加入しました。

スターリン体制

1924年、レーニンが死去すると、後継者の座をめぐってトロツキースターリンが争いました。

トロツキーはソ連だけではなく、西欧や世界全体に革命を広げ、仲間を増やすべきだと主張しました。この考え方を世界革命論といいます。

スターリンは、社会主義の建設はソ連1国だけでよく、革命を広げる必要はないと主張しました。この考え方を一国社会主義論といいます。

スターリンが後継者争いに勝ち、スターリン体制と呼ばれる独裁体制を築きました。

スターリンは、粛清(しゅくせい)といって、自分に反対する人びとを次々に処刑していきました。

1936年には、ソヴィエト社会主義共和国連邦憲法にかわるものとしてスターリン憲法が制定されました。

五カ年計画

スターリンは五カ年計画という経済政策を実施しました。

1928~1932年、スターリンは第1次五カ年計画を実施しました。鉄鋼・石炭などの重工業を重視した工業化を進める一方、農業については、コルホーズ(集団農場)ソフホーズ(国営農場)の建設により、機械化・集団化が進められました。

コルホーズは、農家みんなで農業機械や土地を共有する農場です。

ソフホーズは、土地も農具も国のもので、農民たちは雇われで賃金を得るサラリーマンみたいなシステムの農場でした。ぜんぶ国有なので「国営農場」です。

1933~1937年には食品や繊維製造業のような軽工業の育成をめざす第2次五カ年計画が実施されました。

スターリンの独裁は第二次世界大戦後の1953年に死去するまで続きました。

◆第二次世界大戦についてはこちら

北・東ヨーロッパ・ロシアの歴史クイズ

ギリシア正教を国教にした君主として、正しいのは?
全ロシア=ソヴィエト会議と関係ないのは?
クリミア戦争で、ロシアの相手国とならなかったのは?
バルト三国ではないのは?
ネルチンスク条約を結んだ2国の当時の主君は?
スラブ人のなかで、カトリックを信じた民族ではないのは?
ロシア革命時代の出来事が時代順に正しく並んでいるのは?
レーニンが指導者をしていた団体は?
人物と主張のくみあわせが正しいのは?
エカチェリーナ2世の時代の出来事でないのは?
東ヨーロッパの君主が時代順に正しく並んでいるのは?
ロシア最後の皇帝が退位した事件は?
カルマル同盟に入っていない国は?
戦争の名前と、戦後の出来事の組み合わせが合っていないのは?
ロマノフ朝の皇帝が時代順に正しく並んでいるのは?
ロマノフ朝時代の出来事が時代順に正しく並んでいるのは?
北・東ヨーロッパ・ロシアの歴史クイズ
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おわりに

日露戦争中に第一次ロシア革命が起き、皇帝が十月宣言で民主化を約束しましたが、うまくすすみませんでした。

その後、第一次世界大戦中に、第二次ロシア革命がはじまりました。二月革命で皇帝が退位し、十月革命でレーニンがソヴィエト政権を樹立しました。

第一次世界大戦からいち抜けした後、国内は内戦状態となり、外国も攻め込んできますが、何とか乗り切ってソヴィエト社会主義共和国連邦が誕生しました。

レーニンの死後はスターリンが独裁体制をしきました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

▼このあとのソ連の歴史はこちら

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