18世紀末に起きたフランス革命は、ナポレオン=ボナパルトがクーデターでフランスのリーダーになって終わりました。
その後のナポレオンについてです。ナポレオンの行動はヨーロッパじゅうを巻き込みました。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
ナポレオンの統領政府
ナポレオン=ボナパルトは、ブリュメール18日のクーデタを起こして、当時のフランス政府だった総裁政府を倒しました。このときフランス革命の終結が宣言されました。ナポレオンは統領政府をつくり、トップである第一統領になりました。
俺がナンバーワン統領になってフランス革命はジ・エンド!
この時期、ナポレオンは
- フランス革命当時の政府がカトリック教会の財産を没収したりしたので、フランスとカトリック教会の仲は悪化していました。ナポレオンは状況改善のため、ローマ教皇と協定をむすんで和解しました。これを宗教協約(コンコルダート)といいます。
- 1802年に、イギリスとはアミアンの和約を結んで休戦しました。これにより第2回対仏大同盟が消滅しました。
- ナポレオンが国民投票で終身統領に選ばれました。
- 1804年に、市民の権利をまとめたナポレオン法典を制定しました。
フランス第一帝政
1804年、ナポレオンは国民投票によって皇帝ナポレオン1世として即位しました。
ナポレオン1世が即位してから、退位するまでの期間を第一帝政と呼びます。
ナポレオン戦争
ナポレオンが起こした数々の戦争を、まとめてナポレオン戦争といいます。
- ナポレオンを警戒したイギリス・オーストリア・ロシアは、第3回対仏大同盟を結成。ナポレオン1世はこれに反発し、1805年のトラファルガーの海戦でイギリスと戦いました。しかし、イギリスの海軍提督ネルソンの活躍でフランスは負けました。
- 同年、フランスはアウステルリッツの三帝会戦で、ロシア軍とオーストリア軍に勝利。これにより第3回対仏大同盟は消滅しました。
- フランスに敗れたプロイセンは、1807年にフランスとティルジット条約を結び、莫大な賠償金を払いました。また、ポーランド分割によって手にいれたプロイセン領ポーランドなど、たくさんの領土がフランスのものとなります。
神聖ローマ帝国の消滅
ナポレオン1世は1806年、西南ドイツ諸侯とライン同盟を結成しました。同盟に入った西南ドイツの領邦は神聖ローマ帝国から離脱しました。この離脱をうけて、当時の神聖ローマ皇帝は帝位をしりぞき、神聖ローマ帝国は消滅しました。
おれたち抜けさせてもらいまーす
えっまじ・・・?ワシもう皇帝やめる
大陸封鎖令
ナポレオン1世はさらに、イギリスの経済に打撃を与えるため、1806年にヨーロッパ諸国とイギリスとの貿易を禁止する大陸封鎖令(ベルリン勅令)を発令しました。
イギリスのことは大陸側のみんなで無視するように!
周辺諸国の抵抗
周辺の国では、次第に反ナポレオンの動きが強くなります。
プロイセン改革
プロイセンでは、首相シュタインや、次の首相のハルデンベルクらが、プロイセン改革という近代化政策を進めました。
さらに、哲学者フィヒテは「ドイツ国民に告ぐ」というタイトルの講演を行い、ドイツの人たちにナポレオンへの抵抗を呼びかけました。
スペイン反乱
スペインでは当初、ナポレオンを好意的に受け入れていましたが、ナポレオンが自分の兄をスペイン国王にしてスペインを支配しようとしたため、1808年、スペイン反乱が始まりました。
スペインの画家ゴヤは、スペイン市民がナポレオン軍との衝突で犠牲になった事件を「1808年5月3日」という作品で描きました。
ナポレオンの没落
ナポレオンはロシア遠征の敗北をきっかけに没落します。
ロシア遠征
ロシアが大陸封鎖令に違反し、勝手にイギリスと貿易をしたため、1812年、ナポレオンはロシア遠征を行いました。
おいロシア!イギリスは無視するようにって言っただろ!
ロシアは攻めてきたナポレオン軍をモスクワの町ごと焼き払いました。ナポレオン軍は撤退しますが、冬のロシアの厳しい寒さと食糧不足により、ナポレオン軍は壊滅しました。
この敗戦を機にナポレオンの力は弱まり、各国がナポレオン打倒に動きだします。
いまならナポレオン倒せるんじゃね?
ライプツィヒの戦い
1813年に起きたライプツィヒの戦い(諸国民戦争)で、ナポレオンはプロイセン・ロシア・オーストリアの連合軍に敗北しました。ナポレオンは皇帝を退位させられ、エルバ島へ流刑されました。
アイルビーバック!!
このあとナポレオンは、流刑先のエルバ島を脱出して皇帝に復帰しましたが、1815年の、ワーテルローの戦いでイギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に負けました。皇帝への復帰からふたたびの敗北までの、約100日の期間を百日天下といいます。ナポレオンはヨーロッパからとても遠いセントヘレナ島へ流刑され、この島でなくなりました。
ナポレオンの失脚後、フランス国内では1814年にルイ18世が即位してブルボン朝が復活しました。
ウィーン会議
ナポレオンの支配が終わった後、1814年~1815年、オーストリアの首都ウィーンで、フランス革命やナポレオン戦争で混乱したヨーロッパを立て直すためにウィーン会議が開催されました。
オーストリア外相のメッテルニヒが開催して、オスマン帝国を除く全ヨーロッパの代表が参加しました。
この会議でフランス外相タレーランは「正統主義」を唱えました。これは、フランス革命の前の王政を正統な状態とみなして、各国をその状態に戻すべきだ、という主張です。
また、イギリスなどは、一つの国が大きな力をもたないようにする勢力均衡の状態を保つことを主張しました。
会議を円滑にすすめるために舞踏会や宴会が開かれましたが、けっきょく話し合いは進まなかったので、ウィーン会議は「会議は踊る、されど進まず」という言葉でいじられました。
ウィーン体制
ウィーン会議で決まった、19世紀前半のヨーロッパの体制をウィーン体制と呼びます。
その内容は
- イギリスはオランダ領だったセイロン島(スリランカ)とケープ植民地を獲得しました。
- ロシア皇帝がポーランドの国王を兼ねることになりました。
- プロイセン・オーストリア・オランダもあらたな領地を獲得しました。
- オーストリアを盟主とするドイツ連邦の成立が認められました。
- スイスはどんな戦争についても中立の立場である永世中立国になりました。
- フランスとスペインではブルボン朝が復活しました。
各国は、フランス革命前の絶対王政の状態を復活させようとしました。
国家が市民の反発を押さえつけ、ウィーン体制を維持するために、1815年に「神聖同盟」と「四国同盟」が結成されました。
神聖同盟
ロシアのアレクサンドル1世の提唱で、神聖同盟が成立しました。キリスト教の国々が助け合うという名目で、イギリス・オスマン帝国・ローマ教皇を除く全ヨーロッパの国が参加しました。
四国同盟
イギリス・ロシア・オーストリア・プロイセンによる四国同盟が結成されました。後にフランスが加わり五国同盟と改称しました。
1822年に、意見が合わずに五国同盟は自然消滅しました。イギリスはこのあと、1902年の日英同盟まで、他国と同盟しない「光栄ある孤立」という状態になります。
自由主義運動
ウィーン体制の時代、ヨーロッパの市民の間では絶対王政の束縛から逃れ、個人の自由を求める運動が起こりました。この運動を自由主義運動といいます。
- ドイツではブルシェンシャフト(ドイツ学生同盟)、イタリアではカルボナリ(炭焼党)という組織が自由主義運動を行いましたが、どちらの運動もオーストリア軍に鎮圧されました。
- スペインでは、憲法をつくって国王の力を制限しようとするスペイン立憲革命が起きましたが、フランス軍の干渉によって失敗しました。
- ロシアでは皇帝の独裁政治に反対するデカブリストの乱が起きましたが、ロシアの新皇帝ニコライ1世によって鎮圧されました。
ナショナリズム(国民主義)
自由主義運動に加えて、ウィーン体制の時代にはナショナリズム(国民主義)という運動がさかんになりました。ナショナリズムとは、他民族による支配から独立し、同じ民族で団結して国をつくることを目指す運動です。
ギリシアやエジプトなどがオスマン帝国から独立しようとしました。
ギリシア独立戦争
1821年~1829年、ギリシアがオスマン帝国から独立しようとしてギリシア独立戦争が起きました。
当時のイギリス外相カニングは、他のヨーロッパ諸国とは違い、ラテンアメリカの独立に賛成しました。ギリシアの独立についても賛成し、イギリスはギリシアに味方しました。
そのほか、ロシア・フランスがギリシアに加勢しました。
またロマン派の詩人バイロン(英)、画家ドラクロワ(仏)もギリシア独立を支援しました。
オスマン帝国側には、属国のエジプトが味方につきました。
ギリシアはこの戦争に勝ち、オスマン帝国から独立しました。1830年のロンドン会議で、ギリシアの独立は国際的に認められました。
第1次エジプト=トルコ戦争
ムハンマド=アリーは、オスマン帝国の支配下でエジプトを治めるエジプト総督をしていました。
ムハンマド=アリーは、オスマン帝国にシリアの領有権を求めて、1831年に第1次エジプト=トルコ戦争を起こしました。
黒海から地中海へ出るルートが欲しかったロシアは、「南下政策」の一環としてオスマン帝国に加勢しました。ロシアの動きを警戒したイギリス・フランスは、エジプト側が有利になるように動きました。
ロシアは19世紀ぐらいから、作物を冬にも輸出するための「凍らない港(不凍港)」を得ようと、暖かい南方への進出をねらっていました。これを「南下政策」といいます。ロシアは、南下政策のためにバルカン半島のあたりを得ようとして、沢山の戦争にかかわりました。
この戦争はエジプトが勝利し、エジプトはシリアを領有しました。
敗れたオスマン帝国は、ムハンマド=アリーを抑えるためにはロシアと仲良くするほうがトクだと考え、ロシアのダーダネルス・ボスフォラス両海峡(以下、両海峡)の通行権を認め、同時にロシア以外の船の通行を禁止しました。両海峡は、船で黒海から地中海方面に出るとき必ず通る、重要な場所です。こうしてロシアの南下政策はすすんでいきます。
第2次エジプト=トルコ戦争とロンドン会議
エジプトとオスマン帝国の不仲が続き、1839年に第2次エジプト=トルコ戦争が起きました。ムハンマド=アリーはエジプトとシリアの世襲権を要求しました。
ロシアがオスマン帝国側で参戦。そしてムハンマド=アリーの力が強くなることを警戒するイギリス・オーストリア・プロイセンも、オスマン帝国を支援しました。
1840年、第2次エジプト=トルコ戦争の講和会議であるロンドン会議が開催されました。
ロンドン会議は1830年と1840年開催のふたつあります。
エジプト総督ムハンマド=アリーはエジプト・スーダンの世襲権を認められましたが、代わりにシリアを返すことになりました。
また、ロンドン会議で全ての外国軍艦が両海峡を通ることを禁止されたため、ロシアは両海峡の自由通行権を失いました。
フランス七月革命の影響
1830年、フランスの国民が七月革命を起こし、国王がシャルル10世からオルレアン家のルイ=フィリップに交代するという事件がありました。この七月革命の影響で、ヨーロッパ各地で独立運動が起きました。
- 1830年、オランダに併合されていたベルギーが独立しました。
- 同じ年にポーランドでもロシアからの独立を目指す蜂起が起きましたが、ロシア軍に鎮圧されました。
- ドイツでも1830年に反乱が起き、各地で憲法が制定されましたが、最終的には鎮圧されました。
- イタリアのカルボナリが蜂起しましたが、オーストリア軍の介入で鎮圧されました。
また、フランスのロマン主義の画家ドラクロワは七月革命をテーマに「民衆を導く自由の女神」という絵を描きました。
フランスの二月革命の影響:1848年革命(「諸国民の春」)
1848年、またフランスの国民が蜂起して二月革命を起こし、ルイ=フィリップの七月王政を打倒しました。フランスの二月革命は、ヨーロッパ全体に影響を与え、各地で革命や民族運動が起きました。この状況を「諸国民の春」もしくは1848年革命といいます。
おもなな出来事は
- ベルリンとウィーンの三月革命
- フランクフルト国民議会
- ハンガリーとベーメンとイタリアの独立運動(民族運動)
などがあり、すべてドイツ連邦に関係しています。
1848年3月のウィーン三月革命では、市民のクーデタによってメッテルニヒが追放されて、ウィーン体制が崩壊しました。
また、二月革命が起きたとき、ドイツ出身の思想家マルクスは『共産党宣言』を発表し、「万国のプロレタリア(労働者)よ、団結せよ」とよびかけました。
おわりに
ナポレオンの失脚後、ウィーン会議が開かれ、オスマン帝国以外のヨーロッパの国々が話し合い、ウィーン体制がしかれました。
国家としては昔の絶対王政に戻りたくて「神聖同盟」と「四国同盟」を結成し、市民を押さえつけようとしました。
しかし、市民の民主化や独立を求める気持ちは止まりませんでした。なかでもフランスの七月革命と二月革命をきっかけに運動が活発になりました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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