高校世界史の範囲を中心にした南北アメリカの歴史について解説していきます。今回は2回目です。
アメリカ合衆国の独立と建国初期のようすをある程度くわしく、そして簡単に説明します。
13植民地
17世紀~18世紀前半に、イギリスは北アメリカの東海岸に13植民地をつくりました。
また、13植民地の近くにはフランスの植民地ルイジアナもあり、ときどきイギリスの植民地と争いが起きていました。
フランスはカナダにもケベックという植民地をもっていました。
13植民地には
- 最初の植民地であるヴァージニア
- ピルグリム・ファーザーズがつくったニューイングランド植民地
- オランダがつくったニューネーデルラント植民地。ここは戦争でイギリスが奪い、町の名前をニューアムステルダムからニューヨークに変えたといういきさつがあります。
などがあります。
ピルグリム・ファーザーズとは、イギリス・ステュアート朝の国王ジェームズ1世によるイギリス国教会の強制から逃げるためにメイフラワー号という船でアメリカに渡ったピューリタンたちです。
13植民地では
- イギリス本国の議会政治をまねて、植民地議会を13植民地それぞれに設置しました。
- プランテーション(大規模農場) 農業を実施しました。黒人奴隷を大農場で働かせて、収穫した作物をイギリス本国に輸出して稼いでいました。
フレンチ=インディアン戦争
1755年、ヨーロッパの七年戦争と同じ時期に、イギリスと13植民地の連合軍とフランスと先住民の連合軍が戦うフレンチ=インディアン戦争が起きました。
イギリスはフランスに勝ち、パリ条約を結んで
- フランスが持っていたカナダ
- フランスが持っていた、ミシシッピ川以東のルイジアナ
- スペインが持っていたフロリダの一部
など、北米の大きな土地をゲットしました。
しかしイギリス本国はこの戦争ですごくお金を使ったため、13植民地からたくさん税金をとって財政をなんとかしようと考えました。このへんからイギリスと13植民地の仲が悪くなっていきます。
印紙法
1765年、イギリスは13植民地に対して、あらゆる印刷物に税金をかける印紙法を制定しました。
植民地側は「代表なくして課税なし」というスローガンを掲げて反対しました。当時、イギリス本国の議会に植民地側の代表者がいなかったため、そんな議会で決めた税を13植民地は認めないぞ、と主張しました。
反対運動が成功し、イギリス本国は印紙法を廃止しました。
茶法
イギリスは今度は1773年に茶法という法律を制定しました。これは、イギリス東インド会社が13植民地で売る茶を免税にする法律でした。免税によって安い茶を売ることで、東インド会社に市場を独占させようとしました。
13植民地の人びと、特に商人たちは、茶法に強く反発しました。
例えばイ○ンで買い物するときだけ消費税がかからないよう政府が決めたら、ほかのスーパーが「うちの商品が売れないじゃないか!」と激怒するようなものです。
ボストン茶会事件
茶法が決まった1773年にボストン茶会事件がおこりました。茶法に反対する人々がアメリカ先住民に変装して、ボストン港にいた東インド会社の船を襲い、船にあったお茶を海に捨てた事件です。
イギリス本国は報復としてボストン港を閉鎖し、さらにボストン港のあったマサチューセッツ植民地の自治を剥奪しました。
第1回大陸会議
1774年、アメリカのフィラデルフィアで13植民地の代表者たちによる第1回大陸会議が開かれ、13植民地はイギリスの課税を断固拒否することを誓いました。
アメリカ独立戦争
1775年、 レキシントンの戦い、その次のコンコードの戦いを発端に、イギリス軍と植民地軍とのアメリカ独立戦争(アメリカ独立革命)が始まりました。
植民地側は第2回大陸会議を開催し、ワシントンを植民地軍の総司令官に任命しました。
コモン=センス
戦争をはじめたとき、植民地側は
- イギリス本国を支持する、戦争反対派
- イギリスは気に入らないけど戦争には否定的な人
- 戦争賛成派
など、意見がバラバラでした。
1776年、トマス=ペインは『コモン=センス』という小冊子を著し、アメリカ独立の必要性を説きました。これにより、独立戦争に賛成する人が増えました。
同年7月4日、政治家のトマス=ジェファソンが起草した独立宣言が発表されました。
7月4日はアメリカの独立記念日となっています。また、トマス=ジェファソンは3代目のアメリカ合衆国大統領になりました。
他国の参戦
1776年に駐仏大使のフランクリンが、各国に13植民地への支援を要請しました。
当初は、どの国も大国イギリスには勝てないと思い、アメリカの支援に消極的でしたが、1777年に植民地軍がイギリス本国軍に勝利したあとは、フランス、スペイン、オランダといった国々が、植民地側で参戦しました。
武装中立同盟
1780年には、ロシア皇帝エカチェリーナ2世のよびかけで武装中立同盟が結成されました。
この同盟に参加するロシアやプロイセンは中立の立場、つまり13植民地の味方はしないがイギリスの味方もしない、という立場を表明しました。武装中立同盟の結成は間接的に13植民地の助けになりました。
義勇兵
さらには義勇兵と呼ばれる兵士たちが、植民地軍に加勢しました。代表的な義勇兵として
- ポーランドのコシューシコ(のちにポーランド分割に反対して蜂起)
- フランスのラ=ファイエット(のちにフランス革命に参加)
などがいます。
パリ条約
1781年、ヨークタウンの戦いで植民地軍が勝利し、戦闘は終わりました。
1783年には、アメリカとイギリスとの間でパリ条約が締結されました。アメリカ13植民地はイギリスから独立を承認されるとともに、イギリス領となっていたミシシッピ川以東のルイジアナを得ました。
1763年の七年戦争やフレンチ=インディアン戦争などの講和条約
1783年のアメリカ独立戦争の講和条約
は、どちらもパリ条約といいます。まぎらわしいですね。
ちなみに、「パリ条約」というのは全部で40個以上あります(汗)
独立したアメリカに、政府と憲法がつくられました。
アメリカ連合規約
植民地の人びとは、アメリカ連合規約という成文憲法をつくり、この規約の中で、国名がアメリカ合衆国と定められました。
13の植民地は、それぞれがアメリカ合衆国を構成する州となりました。
アメリカ連合規約では政府に強い力がなく、一国としてのまとまりがありませんでした。そのため、「政府の権力をもっと強くするべきだ」と考える連邦主義を掲げる人たちがあらわれました。
アメリカ合衆国憲法
1787年にフィラデルフィアで憲法制定会議が開催され、 新たにアメリカ合衆国憲法が成立しました。
アメリカ合衆国憲法にもとづいたアメリカ連邦政府は、以前の政府よりも強い権限をもつようになりました。ただしその代わりとして、同時に各州にも大幅な自治権を認めました。
三権分立
アメリカ合衆国憲法の大事な特徴のひとつに三権分立があります。アメリカ合衆国での三権とは
- 立法権(議会)
- 行政権(大統領)
- 司法権(裁判所)
です。これらの権力を分立させ、異なる機関にゆだねることで、互いに監視させあい、権力の集中を防ぐシステムです。
連邦派と反連邦派
新しいアメリカ合衆国憲法は、各州でどんどん批准されましたが、中には新しい憲法に反発する人たちもいました。
合衆国憲法に賛成した人びとを連邦派 、反対した人びとを反連邦派といい、連邦派は現在の共和党、反連邦派は現在の民主党のもとになっています。
大統領
独立戦争の際に総司令官として活躍したワシントンが1789年に合衆国初代大統領として就任しました。
第3代大統領には、独立宣言を起草したトマス=ジェファソンが就任しました。彼は反連邦派として初めて大統領に就任し、1803年にフランスのナポレオンからミシシッピ川以西のルイジアナを買収し、アメリカの領土を大きくしました。
おわりに
当初北米にはイギリスとフランスの植民地がありましたが、フレンチ=インディアン戦争の結果、フランスは撤退しました。
イギリスの植民地だった13植民地が印紙法や茶法などの重税に反対し、アメリカ独立戦争を戦って勝利しました。植民地側はパリ条約によってアメリカ合衆国として独立し、三権分立をもりこんだアメリカ合衆国憲法をつくりました。
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