イギリスの歴史について書いていきます。今回は5回目です。
イギリスの政治については、1721年にイギリス初の内閣ができ、ウォルポールが初代首相に就任、というところまで書きました。
また、18世紀から産業革命がはじまりました。
今回は18世紀~19世紀のイギリスの出来事を説明します。領土の拡大、法律の変更などの話題が多いです。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
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アメリカとインドでの領土獲得
![領土の奪い合い](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/陣地を奪い合う棒人間のイラスト.png)
世界各地で、イギリスとフランスは領土争いを起こし、とくに18世紀に激しく争いました。18世紀前半ごろのイギリスの植民地獲得について説明します。
ユトレヒト条約
イギリスの歴史(3)でも書きましたが、スチュアート朝のアン女王の時代に、ヨーロッパのスペイン継承戦争と、北米でイギリスとフランスが戦うアン女王戦争が同じ時期におきていました。
1713年、両方の戦争の講和条約であるユトレヒト条約で、イギリスは
- ヨーロッパのイベリア半島にあるジブラルタル、地中海のミノルカ島
- 北米のニューファンドランド、ハドソン湾地方、アカディア
など、多くの領土を得ました。
インドでの戦い
イギリスは1600年にエリザベス1世がつくった東インド会社が中心となり、インドにマドラス、ボンベイ、カルカッタの3都市をつくりました。東インド会社は貿易をやるのと同時に、貿易拠点になる海外の支配もすすめていました。
いっぽうフランスも17世紀に、インドにポンディシェリ、シャンデルナゴルという町をつくりました。
18世紀、イギリスの東インド会社とフランスによる、インドをめぐる争いは激しくなります。
1757年のプラッシーの戦いで、軍人のクライヴの活躍によって、イギリスがフランスに勝ち、インドを実質的に支配するようになりました。
1763年のパリ条約
18世紀中ごろのイギリスは
- 1740年の、イギリス・オーストリア VS フランス・スペイン・プロイセンが戦うオーストリア継承戦争
- 1756年の、オーストリア・フランス・ロシア・スウェーデン VS プロイセン・イギリスが戦う七年戦争
に参加しました。
七年戦争のときは、同時に、北米のフレンチ=インディアン戦争でフランスと戦いました。北米の戦争はイギリスが勝ちます。
1763年に、フレンチ=インディアン戦争や七年戦争の講和条約であるパリ条約が結ばれました。
これによってイギリスはアメリカやアフリカなどに大きな領土を得ます。
具体的には
①フランスから、北米のカナダとミシシッピ以東のルイジアナ、そのほか地中海やアフリカの領土を獲得。
②スペインから、北米のフロリダを獲得。(ただしイギリスが占領したキューバはスペインに返す)
また、フランスは、シャンデルナゴル・ポンディシェリ以外のインドの植民地を放棄することになりました。
また、この条約で、スペインはフランスからミシシッピ以西のルイジアナを獲得しました。
アメリカの独立
![自由の女神像](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/自由の女神像.png)
イギリスはアメリカ・アフリカ・インドなどを植民地にして大きな国になりましたが、そこからアメリカが離れていきました。
イギリスが印紙法、茶法などでかけた重い税金に怒ったアメリカの13植民地は、1775年にアメリカ独立戦争を起こしました。アメリカが勝ち、1783年のパリ条約で、アメリカ合衆国として独立しました。
このころのアメリカ側の歴史についてはこちら
イギリスは、アメリカの植民地については、1763年のパリ条約で大きく増やし、1783年のパリ条約で失った、といえます。
フランス革命・ナポレオンの時代
![ナポレオン](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/09/ナポレオンの似顔絵.png)
1789年に始まったフランス革命と、その後、支配者になったナポレオンを警戒し、イギリスの首相ピットが中心になって対仏大同盟を何度か結成しました。
また、ピットは労働者による革命を防ぐため、団結禁止法をつくって労働組合を禁止しました。
イギリス・オーストリア・ロシアによる第3回対仏大同盟を良く思わなかったナポレオンは、1805年のトラファルガーの海戦でイギリスと戦います。このときは海軍提督ネルソンの活躍でイギリスが勝ちます。
しかしアウステルリッツの三帝会戦で、ロシアとオーストリアの連合軍が負けたため、第3回対仏大同盟は消滅しました。
1806年には、ナポレオンがヨーロッパ各国に、イギリスとの貿易を禁止する大陸封鎖令を発令しました。
仕返しに、イギリスは他国の船を通行止めする海上封鎖を実施しました。これにより貿易がやりづらくなったアメリカがイギリスに怒り、1812年に戦争が起こりました。
このアメリカ=イギリス戦争(米英戦争)は大きな勝敗がつかないまま、ナポレオンが没落する1814年に講和して終わりました。
この時代に、イギリスの医師ジェンナーが、牛痘を接種して天然痘にかからなくする種痘法を開発してひろめました。
ウィーン会議と光栄ある孤立
ナポレオンは、ワーテルローの戦いで、イギリス・オランダ・プロイセンの連合軍に負け、流刑先でなくなりました。
ナポレオンの失脚後、1815年にウィーン会議がひらかれました。
この会議で、イギリスは南アフリカのケープ植民地、インド方面のスリランカ(セイロン島)などを手に入れました。
この時期のヨーロッパでは神聖同盟、四国同盟(のちに五国同盟)などができました。しかしイギリスは神聖同盟は不参加、四国同盟(のちに五国同盟)には入りましたが、1822年に自然消滅します。
イギリスは国力があって一人で大丈夫だったので、このあとは「光栄ある孤立」といってどの同盟にも参加しませんでした。(この孤立は1902年の日英同盟までつづきます)
19世紀前半のイギリスでの出来事
19世紀以降のできごとをみていきます。
![イギリスの地理](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/イギリスの地理.png)
1801年、アイルランドを併合しました。(スコットランドは1707年にすでに併合しています)
そしてこの時期、規制の廃止や緩和、自由化などの自由主義的改革が進みました。たとえば
- 労働組合を禁止した団結禁止法が1824年に廃止され、労働組合の結成がみとめられました。
- 1849年、クロムウェルが制定した航海法が廃止されました。
- 数回にわたる選挙法改正が行われました。
そのほかについても説明していきます。
パクス=ブリタニカ
ヴィクトリア女王(在位1837~1901年)の時代に入ると、イギリスは工業&軍事大国となります。
強大な海軍をもち、産業革命によって「世界の工場」といわれる高い工業力をもっていました。
古代ローマ時代の「パクス=ロマーナ(ローマの平和)」をもじって、当時のイギリスは「パクス=ブリタニカ」とよばれました。
ナショナリズムへの対応
19世紀前半から、同じ民族で独立して国をつくろうとするナショナリズム(国民主義)という運動がさかんになりました。
当時のイギリス外相カニングは、他のヨーロッパ諸国とは違い、ラテンアメリカやギリシアの独立に賛成しました。
1821年~1829年、ギリシアがオスマン帝国から独立しようとしてギリシア独立戦争が起きました。このときイギリスはギリシアに味方しました。
また、1823年、第5代アメリカ大統領モンローがモンロー宣言(教書)で、ヨーロッパが南北アメリカに干渉するべきではないと表明したさい、イギリスはこの意見に賛成しました。
エジプト=トルコ戦争への干渉
エジプト地域と支配国のオスマン帝国が戦ったエジプト=トルコ戦争に、イギリスは干渉しました
1831年の第1次エジプト=トルコ戦争では、オスマン帝国に加勢したロシアを警戒して、逆側のエジプトが有利になるように動きました。
1839年の第2次エジプト=トルコ戦争のさいは、エジプトの提督ムハンマド=アリーの力が強くなることを警戒して、オスマン帝国を支援しました。また、この戦争の講和会議であるロンドン会議でダーダネルス・ボスフォラス両海峡をどの国も通行禁止にして、ロシアの行動範囲が伸びるのを妨害しました。
東インド会社の商業活動が停止
1833年、イギリスとアジアの貿易をほぼ独占してきた東インド会社の商業活動が、全面的に禁止されました。
これにより、民間の会社も貿易に参加できるようになりました。また、東インド会社はインドの支配に専念するようになりました。
また、同じ年に奴隷制が廃止されました。
穀物法の制定と廃止
1815年、イギリスは、穀物の輸入を制限する穀物法を制定しました。
この法律は、地主や農業資本家を守る保護貿易政策のひとつです。
1839年、保護貿易に反対し、国家が貿易に介入しない自由貿易を求めるコブデンとブライトは、反穀物法同盟を結成しました。
このあと、19世紀半ばに、アイルランドでジャガイモがとれないジャガイモ飢饉が起きたとき、穀物が手に入らずになくなった人が続出したため、1846年に穀物法は廃止されました。
アイルランド併合
1801年、イギリスはカトリック教徒が多いアイルランドを併合しました。最初、アイルランドのカトリック教徒たちは差別されていましたが、少しずつ改善されていきます。
1828年に審査法が廃止され、カトリック教徒を除く非国教徒が公職につけるようになりました。
審査法とは、1673年にできた「イギリス国教会信者じゃないと公職につけない」という内容の法律です。
翌年にはカトリック教徒解放法が制定され、カトリック教徒も公職につけるようになりました。
第1回選挙法改正
![選挙](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/投票箱.png)
産業革命後、人が都会に流れて有権者の数は減ったのに、議席の数は減っていない選挙区を「腐敗選挙区」といいます。
こうした選挙区では、立候補者が少数の有権者を買収して当選する、という不正が行われていました。
この対策として、1832年に第1回選挙法改正が行われ、 腐敗選挙区が廃止されました。また、工場経営者などの裕福な産業資本家に選挙権を与えて有権者を増やしました。
チャーティスト運動と第2回選挙法改正
![民衆](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/集団.png)
第1回選挙法改正で産業資本家は選挙権をもちましたが、労働者には選挙権がないままでした。
そこで、労働者たちは参政権を求めてチャーティスト運動を行いました。
かれらは21歳以上の男性の普通選挙など、6カ条の要求からなる人民憲章(ピープルズ=チャーター)を掲げました。
この運動は、史上初の労働者による組織的な政治運動として知られています。1848年に王政を打倒したフランス二月革命の影響を受けて勢いづき、1837年から50年代まで続きました。
その結果、1867年に第2回選挙法改正が行われ、都市労働者にも選挙権が与えられました。
(地方の農村の労働者の選挙権はまだありません。)
自由党と保守党
1830年代からは、自由党と保守党の二大政党がイギリスの政治を行っていました。
17世紀、ジェームズ2世の即位について、ホイッグ党が反対、トーリ党が賛成しました。
ホイッグ党の流れをくむのが自由党、トーリ党の流れをくむのが保守党です。
自由党は産業資本家や労働者の支持を集め、自由主義的改革を進めました。また、イギリスが併合したアイルランドの自治についても寛容でした。
一方、保守党は地主や貴族などに支持され、 アイルランドの自治に否定的でした。
19世紀後半のイギリスの有名な政治家に、自由党のグラッドストンと保守党のディズレーリがいます。
グラッドストン
自由党のグラッドストンは1868年から1894年の間、4度首相をつとめ、労働者のための政策を行いました。
- 1871年には労働組合法を定め、労働者たちが労働組合をつくったりストライキをする権利を保障しました。
- 1884年には第3回選挙法改正を行い、 農村や鉱山の労働者に選挙権を与えました。(しかし成人男性の一部と成人女性全体は選挙権がまだありません)
- アイルランド自治法案で、アイルランドに自治権を与えようとしましたが、議会に反対されました。
選挙法改正のまとめ
![投票](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/投票箱.png)
ここで選挙法改正についてまとめておきます。
- 第1回(1832年)買収が行われていた腐敗選挙区の廃止・産業資本家が選挙権を得る
- 第2回(1867年)チャーティスト運動の影響で都市労働者が選挙権を得る
- 第3回(1884年)自由党のグラッドストン内閣の時代、農村や鉱山の労働者が選挙権を得る
保守党のディズレーリ内閣の時代には帝国主義の流れが強くなり、海外を植民地にしようとする動きが強くなっていきますが、次の記事に回します。
おわりに
今回は18世紀以降のイギリスについて説明しました。
次回はイギリスのアフリカ・インド・中国・東南アジアなどでの植民地支配について、まとめます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/british-colony-160x90.jpg)