高校世界史の範囲を中心にしたイタリアの歴史について解説していきます。
中世以降のイタリアは小さな国や都市がバラバラに存在していました。
そのあと19世紀になって、サルデーニャ王国によってやっとイタリアが統一されました。
中世のイタリア
中世のイタリアは中部フランク王国が治めていました。しかし王家であるカロリング家が断絶した後は、分裂状態になり、小さな国や都市がバラバラに支配していました。
北部の自治都市たち
中世のイタリア北部は
- ヴェネツィア共和国
- ジェノヴァ共和国
- ミラノ公国
- フィレンツェ共和国
などの様々な自治都市(コムーネ、都市共和国)がありました。
また、12世紀頃から自治都市(コムーネ)の人たちは
- カトリックのローマ教皇を支持する教皇党(ゲルフ)
- ドイツの神聖ローマ皇帝を支持する皇帝党(ギベリン)
の2つの派閥に分かれて争うようになりました。
![対立](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/対立_s.png)
中部の教皇領
ローマのあるイタリア中部はローマ教皇の領土(教皇領)になっていました。
教皇領の始まりはフランク王国のピピンの寄進です。
現在では教皇領はバチカン市国のみになっています。
南部の両シチリア王国(ナポリ王国・シチリア王国)
イタリア南部とシチリア島のエリアに、ノルマン人が1130年に両シチリア王国を建国しました。
13世紀末にはナポリ王国とシチリア王国に分裂しましたが、その後ふたたび統合して両シチリア王国を名乗りました。
▼ノルマン人について知りたいかたはこちら▼
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/norman-160x90.jpg)
近世イタリア:イタリア統一への動き
![独立運動](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/独立運動_s.png)
19世紀以降のイタリアでは、「外国からの支配から抜け出そう!」「イタリアを統一しよう!」という革命運動がさかんになっていきます。
統一前のイタリア
イタリアは相変わらず分裂状態が続いていました。
また、イタリア戦争やスペイン継承戦争などにより、イタリアの一部は、フランスや、ハプスブルク家がおさめるスペインやオーストリアの領地になっていました。
北部のロンバルディア、ヴェネツィア、南チロルは、オーストリア領になっていました。
ローマ教皇が持っている教皇領がある中部イタリアにはフランス軍が駐屯していました。
19世紀前半のイタリア統一運動
19世紀の初め、イタリアで秘密結社カルボナリ(炭焼党)がつくられました。彼らは革命をおこそうとして蜂起しましたが、オーストリア軍に弾圧されてしまいました。
その後、イタリアの革命運動の中心は、カルボナリの元メンバーのマッツィーニが作った「青年イタリア」という組織になります。
1848年、王政を倒したフランスの二月革命に影響されて、ヨーロッパ各地で革命や民族運動が起きました。これを「諸国民の春」、もしくは1848年革命といいます。
▼1848年革命について知りたいかたはこちらをどうぞ▼
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/09/vienna-congress-160x90.jpg)
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/09/prussia-austria-160x90.png)
イタリアでも「青年イタリア」をつくったマッツィーニたちによってローマ共和国が建国されましたが、フランス軍によって崩壊しました。
サルデーニャ王国のイタリア統一
1848年のイタリアでは、マッツィーニだけでなく、サルデーニャ王国もオーストリアに反旗を翻したのですが、敗北しました。
サルデーニャ王国は1720年に成立し、サルデーニャ島や、北西部のジェノヴァやトリノを領土としていた国です。この国が19世紀後半のイタリア統一運動の中心になりました。
サルデーニャ王国の
- 国王ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世
- 外交がうまい首相カヴール
は、イタリア統一にむけて動きはじめました。
流れとしては、クリミア戦争→イタリア統一戦争→中部イタリア併合→両シチリア王国併合、となります。
サルデーニャ王国は、オスマン帝国とロシアが戦ったクリミア戦争(1853~1856)に、イギリス・フランスといっしょにオスマン帝国側に加勢しました。
このときカヴールはフランス皇帝ナポレオン3世と仲良くなり、サルデーニャがイタリア統一をすることについて、ナポレオン3世に賛成してもらえました。
つぎに1859年、サルデーニャ王国はオーストリアとイタリア統一戦争で戦い、イタリア北部のロンバルディアを奪いました。
そしてサルデーニャは、領土のうちフランスに近いサヴォイアとニースの町をフランスに割譲し、そのかわりに、フランス軍が駐屯していた中部イタリアを併合することに成功しました。
クリミア戦争のときにフランスのナポレオン3世と仲良くなっていたので、中部イタリア併合はすんなりうまくいきました。
そのころ「青年イタリア」出身のガリバルディという人が千人隊(赤シャツ隊)を組織してイタリア南部の両シチリア王国を征服しました。カヴールはガリバルディを説得し、その領土を譲ってもらいました。サルデーニャ王国は戦わずに両シチリア王国を併合できました。
こうして1861年、サルデーニャ王国はイタリアを統一し、イタリア王国が成立しました。イタリア王国は第二次世界大戦後の1946年まで続きました。
イタリア王国の領土拡大
![戦争](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/争い.png)
以後、イタリア王国は戦争によって領土を拡大していきます。
1866年の、プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)では、プロイセンを支援した見返りにイタリア北部のヴェネツィアを併合しました。
その後1870年に始まったプロイセン=フランス戦争(普仏戦争)では、駐屯していたフランス軍が少なくなったスキにイタリア中部のローマ教皇領を併合しました。
未回収のイタリア
イタリア統一の際、イタリア人が多く住むにもかかわらず、イタリア領にできなかった地域がありました。そういう地域を「未回収のイタリア」といいます。
「未回収のイタリア」の一部であるトリエステや南チロルは、オーストリア領のままでした。このためイタリアとオーストリアとの仲は悪くなっていきます。
アフリカ進出
1895~1896年、イタリアはアフリカ侵出をねらってエチオピアに侵攻しましたが、失敗しました。
その後イタリアは1911~1912年に起きた青年トルコ革命の混乱に乗じてオスマン帝国に宣戦布告し、イタリア=トルコ戦争を起こしました。イタリアは勝利し、オスマン帝国から北アフリカのトリポリ・キレナイカ(現在のリビア)を獲得しました。
さらにイタリアはアフリカ北東部のソマリランドを得ました。ただしソマリランドはイタリアが単独で支配したわけではなく、北から順にイギリス・フランス・イタリア領に分割されました。
第一次世界大戦後のイタリア
時代は第一次世界大戦後にとびます。
ファシスト党の台頭
当時のイタリアは深刻な不況になり、北イタリアでは労働者たちが工場を占拠しストライキを行う事件が起きました。国内は混乱し、当時の政権は支持を失っていきました。そんな中ムッソリーニが反社会主義を掲げて率いたファシスト党が台頭してきます。
資本家や地主は社会主義に反対し、ファシスト党を支持しました。なぜなら、国が社会主義になると、工場や土地は取り上げられて国のものになってしまうからです。
また、ムッソリーニは、仕事がない者には職場を提供し、物価が高ければ価格調整を行う、と宣言したため、下層階級からも支持を集めました。
ムッソリーニは、社会主義・共産主義、さらに民主主義を否定し、軍事警察が国民の権利や自由を抑圧し、ファシスト党が独裁することを主張しました。
「だまって俺についてこい!俺がこの国を良くしてやる!そのかわり国民は何も口出しするな!」という主張です。このような思想・体制をファシズム(全体主義)といいます。ファシズムの考え方は、ドイツのヒトラーにも影響を与えました。
ローマ進軍と一党独裁体制
1922年、ムッソリーニ率いるファシスト党が武装し、ローマに向かって進軍するローマ進軍という事件が起こりました。
政府はこれを鎮圧しようとしましたが、国王がこのクーデターを認めたため、ムッソリーニは首相に就任し、新政権を樹立しました。そして1926年、ファシスト党の一党独裁体制を完成させました。
そのころイタリアはアルバニアを保護国化しました。実質、植民地と同じ扱いです。
1924年、ムッソリーニは未回収のままであったフィウメを併合しました。
第一次世界大戦後、イタリアは「未回収のイタリア」のうちの南チロルや トリエステの領有は認められたものの、フィウメという地域はユーゴスラヴィア領になりました。
フィウメをめぐり、イタリアとユーゴスラヴィアとの関係は悪化していきました。両国の対立を見かねた国際連盟は、1920年にフィウメを自由市として国際連盟の管理下におくことにしました。
ラテラン条約
![条約・和解](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/条約.png)
19世紀のイタリア統一の中で、ローマ教皇領はイタリア軍によって併合されました。それ以来ローマ教皇庁とイタリア政府は絶交状態でしたが、1929年、ムッソリーニはラテラン条約(ラテラノ条約)を結び、ローマ教皇庁と和解しました。
ラテラン条約により、イタリアはローマ市内の一部を、ローマ教皇が統治するヴァチカン市国として独立することを認め、教皇側は、代わりにムッソリーニ政府を承認しました。
ローマ教皇から承認されたということで、ムッソリーニはカトリック教徒が多いイタリア国民の支持をさらに集めました。
世界恐慌
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/世界恐慌_s.png)
世界恐慌後、ムッソリーニ独裁下のイタリアは不況から国民の目をそらすため、1935年エチオピアへ侵攻し、翌年に併合しました。国際連盟はイタリアの行動を非難し、経済制裁を実施しました。
ベルリン=ローマ枢軸と三国防共協定
![三国防共協定](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/三国防共協定_s.png)
スペインで1936年7月、アサーニャ率いる社会主義の人民戦線内閣と、ファシズム政党を支持するフランコ将軍が率いる軍部との間でスペイン内戦が勃発しました。
ファシズム国家であるドイツ・イタリアはフランコ側を支援しました。
スペイン内戦をきっかけに接近したドイツとイタリアは、1936年、内戦のさなかにベルリン=ローマ枢軸の成立を宣言し、協力関係をつくりました。
ドイツは日本とも接近し、1937年にドイツ・イタリア・日本による三国防共協定が成立しました。この三国は第二次世界大戦で「枢軸国」として同盟することになりました。
1937年には、イタリアが国際連盟を脱退。日本とドイツは先に脱退しており、ファシズム三国がいずれも国際連盟を脱退しました。
こうして第二次世界大戦に突入していきます。
第二次世界大戦中~戦後のイタリア
イタリアは1940年、第二次世界大戦にドイツ側で参戦しました。
しかし1943年に連合軍は、イタリア半島の西南にあるシチリア島に上陸した後、イタリア本土に攻め込みました。
このときにムッソリーニは失脚し、逃亡をはかりましたが1945年に処刑されました。
ムッソリーニ失脚後、イタリアには新政府が成立し、連合軍に無条件降伏しました。
その後1946年に行われた国民投票で王政の廃止が決定し、イタリア共和国となりました。
また、1921年に結成されたイタリア共産党が戦後に勢力をのばし、その規模はヨーロッパで最大となりました。
おわりに
以上、中世以降のイタリアの歴史をご紹介しました。
古代のイタリア(ローマ)についての記事もありますので、ぜひそちらもご覧ください。