高校世界史の範囲を中心にしたドイツ周辺(ドイツやオーストリアなど)の歴史について解説します。
今回は1回目、神聖ローマ帝国についてです。
神聖ローマ帝国と、イタリアのローマ帝国は別の国です。
神聖ローマ帝国(962~1806年)は、イタリアではなくドイツ方面にあった国です。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
記事の読み上げ音声もあります。
神聖ローマ帝国のはじまり
神聖ローマ帝国はフランク王国から分かれてできた国で、初代皇帝はオットー1世です。
彼はアジア系遊牧民のマジャール人を撃退した功績で、962年に教皇からローマ皇帝の位をもらいました。これが神聖ローマ帝国のはじまりです。
叙任権闘争とカノッサの屈辱
1056年に即位した神聖ローマ皇帝ハインリヒ4世は、ローマ教皇グレゴリウス7世と聖職叙任権をめぐって争いました。この争いを叙任権闘争といいます。争いのすえ、皇帝は教皇に「破門」され、めっちゃ謝罪して許してもらいました。1077年のこの出来事をカノッサの屈辱といいます。
イタリア政策と領邦の誕生
10~12世紀にかけて、代々の神聖ローマ皇帝は、本物の「ローマ」があるイタリアを支配するため、しょっちゅうイタリアを攻撃しました。これをイタリア政策といいます。
あとで話しますが、最終的に神聖ローマはフランスとイタリアの支配をかけて戦争します。これがイタリア戦争(1494~1559)です。
皇帝がイタリアに行ってて留守が多い神聖ローマ帝国は、各地の領主である諸侯がだんだん権力を増していきました。
13~14世紀には、神聖ローマ帝国内で、領邦という、小さい国っぽいものがたくさんできました。
こうして神聖ローマ帝国の国内はバラバラになり、皇帝の力はだんだん弱くなりました。
大空位時代と金印勅書
神聖ローマ帝国では、シュタウフェン朝という王朝がとだえた1256年から1273年まで、実質的に皇帝がいませんでした。この期間を大空位時代といいます。
その後1356年に、神聖ローマ皇帝カール4世が皇帝不在が再び起こらないように、金印勅書を発布しました。
金印勅書では、選帝侯という7人の有力諸侯が皇帝を選ぶ、と定めました。
実際は、1438年以降、皇帝の位はほぼハプスブルク家の世襲になります。
ハプスブルク家はもともとオーストリアの領主だったので、オーストリア皇帝と神聖ローマ皇帝が同じ人、という状態が長年つづきました。
東方植民
12~14世紀、ヨーロッパでは新しい土地を求める動きがひろがりました。
ドイツではドイツ騎士団が中心となって、エルベ川以東の地域を開墾して領土を広げる東方植民が盛んになりました。
イタリア戦争
イタリア戦争(1494~1559)は、イタリアの支配をかけたフランス(ヴァロア朝)と神聖ローマ帝国(ドイツ)の戦争です。
フランスはオスマン帝国と、神聖ローマ帝国はイギリスと同盟を組んで戦いました。
戦争は1559年のカトー=カンブレジ条約によって終わるのですが、長く戦争が続いた結果、フランスと神聖ローマ帝国の仲は悪いままでした。
▼イタリア戦争についてもっと知りたい方はこちらの記事をどうぞ
宗教改革
キリスト教の宗教改革は神聖ローマ帝国からはじまりました。
贖宥状(免罪符)
ローマ教皇レオ10世は、サン=ピエトロ大聖堂を改築するため、「買ったら天国に行ける」贖宥状(免罪符)を神聖ローマ帝国で売り、お金を集めようとしました。
九十五カ条の論題
ローマ教皇による贖宥状(免罪符)の販売に、ヴィッテンベルク大学の神学の教授だったマルティン=ルターが反対しました。
ルターは贖宥状(免罪符)を批判した「九十五カ条の論題」という文書を発表しました。
このためローマ教皇レオ10世は、1521年にルターを破門しました。
▼宗教改革についてもっと知りたい方はこちらの記事をどうぞ
ヴォルムス帝国議会
ここで、ルターと教会の対立に、神聖ローマ皇帝カール5世が仲裁に入りました。
カール5世はスペイン国王も兼任していて、スペインではカルロス1世といいます。
1521年、カール5世はヴォルムス帝国議会を開き、ルターを呼び出しました。
しかし…
教会の批判をやめなさい!
イヤです!
はぁ?!じゃあ出ていけー!
というわけで、仲裁するはずだったカール5世は、いうことをきかなかったルターを神聖ローマ帝国から追放しました。
追放されたルターは、ザクセン選帝侯フリードリヒのところにお世話になります。
ここでルターは『新約聖書』をドイツ語に訳しました。これによりドイツで聖書を読める人が増え、ルターの考えに賛成するルター派が現れました。
神聖ローマ帝国のなかはカトリック派とルター派が争うようになり、混乱が広がっていきました。
ドイツ農民戦争
ミュンツアーという人は、ルターの宗教改革に賛同していましたが、しだいに宗教改革だけでなく、社会のいろんな不条理の改革を目指すようになりました。
1524~1525年にミュンツアーが率いる農民たちが農奴制や十分の一税などの廃止を求めて、ドイツ農民戦争という農民一揆をおこしました。
シュマルカルデン戦争
1530年、ルター派の諸侯たちがシュマルカルデン同盟をつくりました。
カトリック陣営では1545年から、宗教改革の対策などを話し合うトリエント公会議(トレント公会議)が始まりました。
これに危機感をもったシュマルカルデン同盟が、皇帝カール5世に反乱をおこしました。これがシュマルカルデン戦争です。
第一次ウィーン包囲
同じころ、宗教改革とは関係ないのですが、1529年にオスマン帝国の最盛期の王スレイマン1世が神聖ローマ帝国内に入り、主要都市のウィーンを取り囲む第一次ウィーン包囲という事件がありました。
冬になったらオスマン帝国は撤退しました。
アウクスブルクの宗教和議
シュマルカルデン戦争は皇帝側が勝ちましたが、皇帝は第一次ウィーン包囲なども起きたので、国内のなかだけでも平和にしておきたいなーと考えました。
カール5世は1555年にアウクスブルクの宗教和議を開き、ルター派を認めました。
領邦を支配する諸侯は、領邦内での宗教をルター派かカトリック派か選べるようになりました。
ただし、1人1人の個人の信仰の自由や、カルヴァン派の信仰は認められませんでした。
三十年戦争
ルターが免罪符を批判してから約100年後の1618年、神聖ローマ帝国内のベーメンの反乱がきっかけで、旧教と新教の対立が表面化した三十年戦争が起きました。
ヨーロッパの各国が参戦したため、内戦から国際的な戦争となりました。
ベーメン反乱
神聖ローマ帝国の中にベーメン王国(ボヘミア)という国がありました。
ハプスブルク家の神聖ローマ帝国皇帝が、この国にカトリック信仰を強制しました。
新教徒が多かったベーメンの人びとは反発し、1618年にベーメン反乱が起こりました。
新教の国々がベーメンに加勢したことで、内戦は国際的な三十年戦争へと発展しました。
オランダ・デンマーク・スウェーデン・フランス・スペインの参戦
旧教徒側にはスペイン、新教徒側にはオランダが参戦しました。
そのあと1625年に、プロテスタント国家のデンマークも参戦し、ベーメンを支援します。しかし神聖ローマ帝国にやとわれた傭兵隊の隊長ヴァレンシュタインに敗北しました。
傭兵たちは略奪をしたため、ヨーロッパの都市や農村は荒廃しました。
1630年には、同じくプロテスタント国家のスウェーデンが参戦。スウェーデン軍はさきほどのヴァレンシュタインに勝利しましたが、国王グスタフ=アドルフが戦死したため撤退しました。
フランス国内の大多数はカトリック(旧教徒)でしたが、イタリア戦争で争って以来、フランスと神聖ローマ帝国は仲が悪かったため、1635年にフランスは新教徒側で参戦しました。
プロテスタント国家の敗退が続いてましたが、フランスの参戦によって、カトリック側(神聖ローマ帝国)優勢から五分五分の状態になり、講和の動きが高まります。
ウェストファリア条約
三十年戦争は、1648年にウェストファリア条約が結ばれて終わりました。この条約は最初の近代的な国際条約といわれています。
内容は
- 神聖ローマ帝国の国内でカルヴァン派の信仰が公認されました。
- ハプスブルク家からスイスとオランダが独立することが国際的に認められました。これにより、ずっと続いていたオランダ独立戦争も終了しました。
- 神聖ローマ帝国の領土のうち、フランスがアルザス地方、スウェーデンがバルト海南岸を獲得しました。
- 神聖ローマ皇帝は名目だけのものとなり、神聖ローマ帝国の領邦は、独立し主権を持つ領邦国家として認められました。これを神聖ローマ帝国の有名無実化といいます。
神聖ローマ帝国からしたら、カルヴァン派は認めないといけないし、領土は減るし、皇帝の権力は完全になくなるし…と、トホホな結果となりました。
神聖ローマ帝国の消滅
フランスのナポレオン1世は1806年、西南ドイツ諸侯とライン同盟をつくりました。
西南ドイツの領邦の諸侯たちは、神聖ローマ帝国からぬけてライン同盟に入りました。
この離脱をうけて当時の神聖ローマ皇帝は帝位を退きました。
こうして、ライン同盟の結成によって神聖ローマ帝国は消滅しました。
わし、もうやる気なくしちゃった
おわりに
神聖ローマ帝国はたくさんの領邦からなっていて、まとまりが弱い国でした。三十年戦争のあと、ウェストファリア条約によって神聖ローマ帝国は実質的に解体となり、ナポレオンの時代のライン同盟結成によって完全に消滅しました。
まとめっぽいイラストを作ってみました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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