世界史イギリス編(3)【17~18世紀・ステュアート朝・内閣創設】

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イギリスの歴史

イギリスの歴史について書いていきます。今回は第3回目です。

前回はエリザベス1世が亡くなり、テューダー朝がとだえたところまででした。

今回は、その後ひらかれたステュアート朝についてです。

ステュアート朝の王様は

  • だいたい議会と仲が悪かった
  • 議会と仲が悪すぎて、処刑されたり追放される人がいた

ことをおさえておくと、読みやすいと思います。

・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。

記事テキストの読み上げ音声もあります。耳からの勉強にどうぞ。

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ステュアート朝・初代ジェームズ1世

ジェームズ1世
ジェームズ1世

議会もピューリタンも嫌い!

1603年にエリザベス1世が亡くなってテューダー朝がとだえると、遠縁のジェームズ1世が即位して、ステュアート朝をはじめました。

ジェームズ1世は議会を軽視して、「王の権力は神から授かったもので、反抗は許されない」という王権神授説を主張しました。

ピルグリム・ファーザーズ

自由を求めて新大陸アメリカへ

ジェームズ1世イギリス国教会の信仰を強制したため、国内のピューリタン(清教徒=イギリスのカルヴァン派)から嫌われました。

一部のピューリタンは1620年、メイフラワー号という船で北アメリカへ移住しました。その移住者をピルグリム・ファーザーズといいます。彼らが住んだ地域は、イギリス領アメリカ13植民地の一部になりました。

インドネシアでイギリス人がオランダ人に殺されたアンボイナ事件は、この時代のことです。(1623年)これをきっかけに、イギリスはインドネシアから撤退しました。

チャールズ1世

した手に出て国王にお願いする議会

1625年、次に即位したチャールズ1世も、議会を軽視しました。そこで議会は「権利の請願」というお願い文書をつくり、国王の独断による課税や不当な逮捕などをやめてほしい、と頼みました。

しかしチャールズ1世は議会を解散させ、ワンマン政治を続けました。

短期議会

その後、スコットランドで反乱がおき、反乱の鎮圧費用を集める必要がでてきました。

それまでは、議会の承認がいらない種類の税金をとってやりくりしてましたが、今回はムリです。

チャールズ1世は、増税する許可をとるため、しゃーなしに11年ぶりの議会をひらきました。

しかし議会は増税を認めなかったので、王は怒って議会を解散させました。たった3週間で解散したので、この議会は短期議会といいます。

長期議会

チャールズ1世は反乱鎮圧に失敗して、スコットランドに賠償金を支払うことになりました。そのお金を集めるために、また議会を招集しました。

この議会は13年続いたので、さっきの短期議会に対して長期議会と呼びます。

ピューリタン革命

チャールズ1世は相変わらず議会を軽視したので、一部の議員は国王を激しく批判します。

そして議会のなかで「国王ゆるさん」派閥と「そこまで言わんでも」派閥が生まれます。

国王と議会の対立は、いつのまにか議会の分断に変わっていきました。

王党派と議会派

イギリス議会は

  • 国王を支持する王党派
  • 議会による改革をしたい議会派

の2つに分かれて対立するようになり、1642年に内戦を起こしました。

議会派クロムウェルが「鉄騎隊」といわれた騎兵隊を指揮し、王党派に勝利しました。

クロムウェルはその勢いで、1649年にチャールズ1世をとらえて処刑しました。

クロムウェルや周囲の人にピューリタン(イギリスのカルヴァン派)が多かったことから、この革命をピューリタン革命といいます。

議会派はのちに独立派、長老派、水平派の3つに分裂しました。
独立派のトップになったクロムウェルは、ほかの派閥を弾圧、追放しました。

クロムウェルによる共和政

クロムウェル
クロムウェル

じゃまものは消す、倒す

チャールズ1世が処刑されて、王がいなくなった後のイギリスの政治体制を共和政といいます。共和政のリーダーは、クロムウェルです。

クロムウェルは、1649年にアイルランドを征服、翌年にスコットランドを征服しました。

イギリスの地理
イギリスの地理

国内では、ピューリタン革命で対立した王党派の残党を討伐しました。

航海法と英蘭戦争

1651年、クロムウェルは、貿易で栄えていたオランダのジャマをするため、航海法を発布しました。

これは、イギリスに商品を運んでくるのは、イギリスの船か原産国の船しか認めない法律です。

オランダは中継貿易といって、アジアやアメリカが作った商品を現地で買い、それをヨーロッパ各国に売って儲けていました。

航海法によってオランダはイギリスでの商売ができなくなるため、航海法に反対しました。

1652年、この二国によってイギリス=オランダ(英蘭)戦争がはじまりました。イギリスは戦争に勝ち、航海法をオランダに認めさせ、海の覇権を得ました。

1653年、クロムウェル長期議会を解散して護国卿(ごこくきょう)という役職になり、独裁を行いました。

イギリス国民
イギリス国民

王政のほうがまだ良かった・・・

1658年にクロムウェルが亡くなると、再び国王による政治がはじまりました。これを「王政復古」といいます。

チャールズ2世

1660年、フランスに亡命していたチャールズ2世がイギリスにもどって国王になりました。

なお、2022年9月に即位したのはチャールズ3世です。

チャールズ2世は、議会と対立したり、カトリックの復活を宣言して、ピューリタンを迫害しました。こうしてみると、イギリスの国王って、宗教については一貫してないですね。

チャールズ2世
チャールズ2世

カトリックしか認めん!議会は無視!

議会は、国王に抵抗するため

  • 審査法
  • 人身保護法

の2つの法律を制定しました。

審査法議員などの公職には国教徒しかなれない、と決めた法律です。この法律でチャールズ2世のカトリック政策に対抗しました。

イギリス議会
イギリス議会

公職につく人は、信じている宗教について審査しますよ!

人身保護法では、王が国民を不当に逮捕することを禁止しました。

なお、審査法と、クロムウェルが定めた航海法は、19世紀に廃止されました。人身保護法は今もあります。

名誉革命

対立
対立

国王との対立に対し、議会は団結して対抗していたのですが、チャールズ2世の弟ジェームズの王位継承問題をめぐって

  • 賛成したトーリ党(後の保守党
  • 反対したホイッグ党(後の自由党

の、2つのグループに分裂しました。

最終的にトーリ党が勝ち、1685年、ジェームズ2世が即位しました。

トーリ党
トーリ党

賛成!賛成!そのトーリ!


ジェームズ2世も、チャールズ2世と同じく、専制的な政治を行いました。

ガマンできなくなった議会は、ステュアート朝の親戚のメアリ2世と夫のオランダ総督(ウィリアム3世)を国王として迎え、ジェームズ2世をイギリスから追放しました。

この出来事は流血ざたがなかったため、名誉革命と呼ばれています。

権利の宣言

新国王ウィリアム3世メアリ2世は、1689年に即位するさい、議会がつくった「権利の宣言」を受け入れました。

権利の宣言」には、国王の権力制限や議会の自由について書かれています。

さらに同年、議会は「権利の宣言」の内容をもとに「権利の章典」という法律を作りました。

権利の章典」では、議会は国王より優位であることや、国民の権利がハッキリ書かれました。

こうしてイギリスでは、君主の権力が憲法によって制限される立憲王政が確立しました。

ニュートンが著書『プリンキピア』で万有引力の法則を発表したのも、このころです。

アン女王

ウィリアム3世・メアリ2世の後に即位したアン女王の時代には、フランスのルイ14世が原因で始まったスペイン継承戦争や、北米でのアン女王戦争(1702年)が起こりました。

2つの戦争を終わらせたユトレヒト条約(1713年)により、イギリスはヨーロッパのジブラルタル、ミノルカ島、北米のニューファンドランド、ハドソン湾地方、アカディアなど、多くの領土を得ました。

スペイン継承戦争についてはこちらの記事でくわしくわかります!

そのほか、1707年には、イングランドスコットランドを併合して大ブリテン王国となりました。

それまではイングランドスコットランドは同君連合でした。

同君連合とは、複数の国の君主が同じ人である状態をいいます。

ハノーヴァー朝

1714年、アン女王がなくなった後、ジェームズ1世のひ孫のジョージ1世がドイツから招かれて即位しました。

彼はドイツではハノーヴァー選帝侯だったので、以後のイギリス王朝はハノーヴァー朝といいます。

第一次世界大戦中の1917年、敵国ドイツ風の名前の「ハノーヴァー朝」から現在の「ウィンザー朝」に名前がかわりました。血筋としては今のイギリス王室につながっています。

内閣誕生

ドイツ出身のジョージ1世は英語を話せず、政治をほとんどしませんでした。

ジョージ1世
ジョージ1世

(ドイツ語で)よきにはからえ、全部まかすわ

国王のかわりに政治をするために、イギリスでは「内閣」という組織ができ、1721年にウォルポールがイギリスの初代首相に就任しました。

内閣

この時代に責任内閣制が確立しました。内閣が、国王ではなく議会に対して責任を負う制度です。

もし議会から「不信任決議」を出された場合は、内閣が責任を取って総辞職するか、議会を解散するかのどちらかになります。

責任内閣制のもとで、イギリス国王は「王は君臨すれども統治せず」といわれるようになりました。

おわりに

テューダー朝の後のステュアート朝の王たちは、議会を軽視する人が多く、ピューリタン革命クロムウェルに処刑されたり、名誉革命で追放されたりと、波乱万丈の王朝でした。

ステュアート朝の次のハノーヴァー朝では、王が政治をする気がなかったので、わりと平和的に、王から国民へ政治の主導権が移りました。

次回は18世紀のイギリスから始まった産業革命についてです。

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最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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