イギリスの歴史について数回に分けて書いていきます。
前回は18~19世紀のイギリスについて説明しました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/victoria-160x90.jpg)
19世紀後半以降、欧米列強(≒大国、強国)は、きそって領土や植民地をひろげる政策をかかげました。この政策を帝国主義といいます。
物を売る場所(市場)や資源を得るため、また、現地の人に安く商品を作らせるために植民地に進出(侵略)していったのです。
イギリスも、19世紀にはアフリカ・インド・中国・東南アジアを植民地にして支配していました。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
イギリスの帝国主義政策や対外戦争
イギリスは1870年代からは帝国主義政策を重んじ、海外植民地をひろげるようになりました。
帝国主義とは、欧米列強が19世紀後半以降、領土や植民地を求めて海外に進出した動きのことです。
それ以前にも、19世紀のイギリスは
- 1826年にマレー半島に海峡植民地をつくる(1895年にマレー連合州になる)
- 中国に対して、1840年のアヘン戦争、1856年の アロー戦争で勝利
- 1853年~1856年のクリミア戦争(ロシアの敵方、オスマン帝国の味方について勝利)
- 1857年のインド大反乱を鎮圧
などを国外でおこなっています。
3C政策とアフリカ縦断政策
19世紀後半のイギリスは、インド洋方面は、ケープタウン・カイロ・カルカッタの3都市を結ぶようなラインで侵略する「3C政策」をとります。
また、アフリカについては、カイロからケープタウンまでの南北のルートを支配する「アフリカ縦断政策」を掲げ、侵出をすすめました。
イギリスの侵攻ルートは、フランスのアフリカ横断政策、ロシアの南下政策、ドイツの3B政策とぶつかり、対立しました。
保守党・ディズレーリ内閣
保守党のディズレーリ内閣の時代に帝国主義の風潮は強くなり
- 1875年にエジプトのスエズ運河を買収
- 1877年には、ヴィクトリア女王をインド皇帝として、インド帝国を成立
- 第2次アフガン戦争に勝ち、アフガニスタンを保護国にする
などがありました。
その後も、19世紀のあいだには
- 1878年、露土戦争後のベルリン会議に参加し、サン=ステファノ(講和)条約を結ぶ。
- 1880年代にエジプトのウラービー運動とスーダンのマフディーの乱を鎮圧し、どちらの地域も支配
- 1886年にビルマをインド帝国に併合
- 1898年、フランスとファショダ事件で衝突し
- 1899年~ 南アフリカ戦争
などがありました。くわしくはあとで説明します。
19~20世紀のイギリスの植民地支配について、①アフリカとその近くの中東・地中海、②インド、③中国、④東南アジアなどの地域別に説明します。
イギリスによるアフリカ・中東・地中海の支配
イギリスは、1713年のユトレヒト条約で、地中海の土地を手に入れました。
ミノルカ島や、地中海の入り口にある、イベリア半島のジブラルタルなどです。
ユトレヒト条約をむすぶきっかけになったスペイン継承戦争については、こちらの記事で詳しく書いています。
ケープ植民地からのアフリカ侵出
![賠償金や領土削減](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/09/賠償金や領土削減.png)
イギリスは1815年のウィーン会議で獲得した、南アフリカのケープ植民地をアフリカ進出の拠点にしました。
1875年、保守党のディズレーリ内閣の時代、エジプトのスエズ運河会社の株を買収し、運河の支配権を得ました。これによって地中海からスエズ運河を通ってインドへ向かうルートを確保しました。
1878年には露土戦争のあと、ロシアに文句を言ったベルリン会議で、地中海のキプロス島の統治権を得ました。
ウラービー運動とマフディーの乱
![蜂起](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/声をあげる様子.png)
1881年、エジプトの軍人ウラービーが「エジプト人のためのエジプト」というスローガンを掲げてイギリスに抵抗するウラービー運動を起こしました。
しかしイギリスに鎮圧され、エジプトはイギリスの保護国となりました。
エジプトの南側の隣にあるスーダンでも、1881~1898年、イギリスに反抗するマフディーの乱が起きました。マフディーとは、この反乱の指導者が名乗っていた「救世主」という意味のアラビア語です。
イギリスは鎮圧に成功しましたが、中国(清)の太平天国をたおしたゴードン提督が戦死するなどして苦戦しました。
スーダンはイギリス植民地として1956年まで支配されました。
アフリカ分割
スーダンとエジプトのように、19世紀後半から、ヨーロッパ各国、とくにイギリスとフランスによるアフリカの支配が加速していきました。このことをアフリカ分割といいます。
1884~1885年、アフリカの植民地支配について話し合うベルリン会議(ベルリン=コンゴ会議)が開かれ、イギリスも参加しました。
「ベルリン会議」は
1)ロシアの南下政策に伴うロシア=トルコ戦争後に開かれた1878年のベルリン会議
2)1884~1885年に開かれたベルリン会議(この会議)
があります。どちらのベルリン会議も主催者はドイツのビスマルクです。
ファショダ事件
イギリスがアフリカ縦断政策を進めていた一方、フランスはアフリカ横断政策を推進していました。このため、1898年にアフリカでファショダ事件と呼ばれる英仏の衝突事件が起きました。
両国の軍隊がファショダではちあわせしたのですが、フランスが譲歩したため、戦いは避けられました。
南アフリカ戦争
![戦争](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/争い.png)
19世紀末~20世紀初頭のイギリスは、ケープ植民地首相のローズや、イギリス本国の植民相ジョゼフ=チェンバレンが中心になって、アフリカ侵出をすすめました。
イギリスは、1899~1902年、ブール人(オランダからアフリカに移住した人たち)から金やダイヤモンドなどの資源を奪うため、戦争を仕掛けました。これを南アフリカ戦争といいます。
ケープ植民地はもともと、17世紀にオランダがつくった植民地でした。ウィーン会議でケープ植民地をイギリスが手に入れたあとは、ケープ植民地にいたオランダ人(ブール人)は北側へ移住してトランスヴァール共和国とオレンジ自由国を建国しました。
トランスヴァール・オレンジの両国は、イギリスに併合されました。
1910年には、トランスヴァール・オレンジ両国やケープ植民地が合わさって南アフリカ連邦ができ、イギリスの自治領になりました。
南アフリカ連邦では、本来の住人である黒人に対し、ブール人をはじめとする白人優位の人種差別がおこなわれました。
第二次世界大戦後になると黒人に差別的な法律が激増しました。これをアパルトヘイト政策といいます。
イギリスはほかに南アフリカのローデシア(今のジンバブエ)、東アフリカの英領ソマリランドの一部などを支配しました。
![アフリカの地図](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/アフリカ分割-800x800.jpg)
20世紀初め、イギリスが支配したアフリカ地域をまとめると
- ケープ植民地とトランスヴァール共和国とオレンジ自由国が合体した南アフリカ連邦
- 南アフリカのローデシア(今のジンバブエ)
- 西アフリカにあるニジェール川の河口(海側)のナイジェリア
- 東アフリカの英領ソマリランドの一部
- スエズ運河ぞいのエジプト・スーダン
などがあります。
イギリスのインド支配
イギリスのインド支配については、だいぶ前の時代から説明します。
アンボイナ事件
1623年、インドネシアのアンボイナ島にいたオランダ人が「島内のイギリス人たちが自分たちを襲おうとしているのでは?」と疑って、逆にイギリス人を殺害した、というアンボイナ事件が起きました。
この事件をきっかけに、イギリスは東南アジアの島から撤退し、インドや隣のアフガニスタン、中国、インドと中国の間にあるマレー半島やミャンマーなど、大陸部の支配に力を入れるようになります。
東インド会社によるインドの支配
1757年のプラッシーの戦いで、イギリスがフランスに勝利し、イギリスがインドを支配するようになりました。
イギリス東インド会社は、1765年にインド東部にあるベンガル地域などの徴税権(ディーワーニー)を得ました。これはイギリスによるインドの土地の支配がはじまったことを意味します。
東インド会社は
- 地主・領主から税を徴収するザミンダーリー制
- 農民から直接、税を徴収するライヤットワーリー制
などの方法で植民地から税をとりました。
また、当時のインドではプランテーション(大農園)経営が行われました。農園では茶やアヘンなどが育てられ、輸出されました。
19世紀のイギリスでは、17~18世紀とは別の形で三角貿易が行われました。①イギリスは中国から茶葉を買いまくって赤字になったので②インドから中国にアヘンを売る③イギリスはインドに綿織物を売って、間接的に中国に払ったお金を回収する、というものです。
イギリス東インド会社はイギリス本国の自由主義的改革により、
- 1813年、貿易独占権が廃止され、インドの貿易が自由化
- 1833年、商業活動が禁止
されたため、東インド会社は貿易公社からインドの統治機関に変わりました。
イギリス東インド会社は
- 1767年に始まったマイソール戦争
- 1775年に始まったマラーター戦争
- 1845年に始まったシク戦争
によってインドのほぼ全域を制圧しました。
インド大反乱とインド帝国の成立
このあと1857年にインド大反乱がおきますが、イギリスは1858年に反乱を鎮圧。インドのムガル帝国は滅亡しました。
また、イギリス東インド会社は責任を取って解散となり、イギリス本国がインドを統治することになりました。
イギリスは、1877年にインド帝国を成立させました。初代皇帝はイギリスのヴィクトリア女王です。
イギリスは、インドの地元の支配者たちを団結させないように、地元の対立を助長する分割統治という方法で統治しました。
インドの藩王国という地方政権とそれぞれ別の条約を結び、藩王国どうしが仲良くしないように工作して、独立運動を防止しました。
その後はヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の対立を利用して、独立運動を防止しました。
しかし結局、インドの反英運動・独立運動は激しくなっていきます。
イギリスの中国支配
![近代中国地図](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/近代中国地図_s.png)
イギリスは1840年のアヘン戦争、1856年のアロー戦争で清に勝ち、不平等条約を結びました。これによりアヘン戦争で香港島を、アロー戦争では九竜半島(くーろんはんとう)の南部を手に入れました。
また19世紀末には、租借(借りる)というかたちで九竜半島の北部、山東半島北部の威海衛を支配しました。このときヨーロッパ各国や日本ががこぞって中国各地を支配したことを、中国分割といいます。
イギリスの東南アジア支配
![東南アジア地図](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/東南アジア地図_s.png)
イギリスは、東南アジアのなかでも、インドと中国に近い地域を中心に支配しました。
ミャンマーの支配
イギリスは、1824年~1886年の間に3回行われたビルマ(ミャンマー)戦争で、ビルマ最後の王朝コンバウン朝を滅ぼし、ビルマ(ミャンマー)をインド帝国に併合しました。
マレーの支配
イギリスは、オランダとの協定などで得たマレー半島のペナン・シンガポール・マラッカを合わせて、1826年に海峡植民地という植民地をつくりました。
さらに1895年、海峡植民地に領土を足す形でマレー連合州を成立させました。
マレー連合州では、錫(すず)の産出やゴムのプランテーション栽培が盛んに行われました。錫開発は中国からの移民である華僑(かきょう)が、ゴムのプランテーションではインドからの移民である印僑(いんきょう)が働きました。
アフガニスタン支配
イギリスは19世紀に、インドのすぐ北のアフガニスタンへ侵攻しました。
1838~1842年に行われた第1次アフガン戦争は、イギリスが負けましたが、1878年の第2次アフガン戦争にイギリスは勝利し、アフガニスタンを保護国化しました。
ただ、1919年の第三次アフガン戦争によってアフガニスタンは他の植民地よりも早く独立できました。
おわりに
以上、18~20世紀初頭のイギリスの植民地支配について、アフリカ、インド、中国、東南アジアなどの地域別に説明しました。
次回は20世紀以降のイギリスについてです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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