ドイツ周辺(ドイツやオーストリアなど)の歴史がわかるシリーズ記事、今回は3回目です。
前回はプロイセンとオーストリアの2強時代の歴史。
1848年革命のあたりで話が終わっていました。
その後、プロイセンは国王ヴィルヘルム1世と首相ビスマルクの時代に。
ドイツを統一してドイツ帝国をうちたてます。
今回はそのへんのお話です。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
記事の読み上げ音声もあります。
ビスマルクの鉄血政策
1861年、プロイセン国王にヴィルヘルム1世が即位。
首相にビスマルクが任命されます。
ヴィルヘルム1世陛下、ドイツ統一に向けてがんばりましょう!
当時のドイツはドイツ連邦といって、40くらいの国が集まっていました。
しかしまとまりがなく、「ドイツ地域を国として統一したい!」とねがう声は強くなっていました。
そこで1848年、フランクフルト国民議会がひらかれ、ドイツ統一にむけて話し合われました。
しかし進展はなく、ドイツはバラバラなままでした。
ビスマルクは、「「鉄」(武器)と「血」(兵士の流す血)、つまり武力でドイツを統一するぞ」というかんじの演説をしました。
このことから彼の政策は「鉄血政策」と呼ばれました。
ビスマルクはこの後、ドイツ統一にむけて
- デンマーク戦争
- プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)
- プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)
の3つの戦争を行いました。
デンマーク戦争
デンマークに、ドイツ人が多く住むシュレスヴィヒとホルシュタインという町がありました。
ドイツ人がたくさん住んでるんだから、うちの領土にしていいだろ!
1864年、プロイセンはここを奪うため、オーストリアといっしょにデンマークへ攻め込みました。
これがデンマーク戦争です。
結果は、プロイセン・オーストリアの勝利。
プロイセンがシュレスヴィヒ、オーストリアがホルシュタインを領有します。
しかしこのあと、取り分でもめることになります。
プロイセン=オーストリア戦争
プロイセンとオーストリアはデンマーク戦争で奪った地域の取り分でもめて、1866年、プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)を始めました。
この戦争はプロイセンが勝ちました。
北ドイツ連邦
プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)によってドイツ連邦の中の2か国が絶交したため、ドイツ連邦は崩壊しました。
その後、プロイセンを盟主とする北ドイツ連邦ができました。
プロイセン側の集まりなので、オーストリアは仲間外れです。
また、カトリックの国である西南ドイツ諸国は、プロテスタント国家であるプロイセンを嫌い、北ドイツ連邦に加わりませんでした。
西南諸国のやつらめ、ぎゃふんと言わせてやる!
オーストリア=ハンガリー(二重)帝国
オーストリアは、プロイセン=オーストリア戦争(普墺戦争)に負けて国力が低下…
そのためハンガリー地域の独立要求を抑えこめず、自治権を与えることに。
ただ、自治をあたえるかわりにオーストリア皇帝がハンガリー国王を兼任することを約束させました。
こうして、オーストリアはオーストリア=ハンガリー(二重)帝国となりました。
プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)
さて、いよいよ「風と木の詩」のワッツ先生が大けがして足が不自由になってしまう普仏戦争です
(このマンガは面白いですが、BL要素があるので苦手な人は注意)
プロイセンは、北ドイツ連邦に参加しなかった西南ドイツ諸国もあわせてドイツ統一国家をつくりたかった。
そのためには西南ドイツ諸国が頼りにしているフランスがジャマでした。
フランスを鉄と血で黙らせるのじゃ
フランスと戦う流れにするべく、ビスマルクは策を講じます。
スペイン王位継承問題についてフランス大使とプロイセン王が話し合った内容を改ざんして広め、両国の仲が悪くなるように仕向けました。
おぬしもワルよのう。
このころ、スペイン国王の後継者としてプロイセン王家の親戚の人が選ばれましたが、フランスはこれに反対したため、フランスとプロイセンは若干もめていました。
計画通り、ナポレオン3世はプロイセンに宣戦布告し、1870年、プロイセン=フランス戦争(普仏戦争)が始まりました。
この戦争は、ナポレオン3世が捕まり、プロイセンが勝利しました。
フランスでは第二帝政が終了しました。
当時のフランス側については、「世界史フランス編」で詳しく書いています
ドイツはフランスから多額の賠償金と、資源が豊富なアルザス・ロレーヌ地方を得ました。
また、西南ドイツがプロイセンによる統一を受け入れたため、ドイツが統一されました。
陛下!これでドイツ統一が達成できますぞ!情報操作バンザイ!
ドイツ帝国の成立
こうして、1871年にドイツ帝国ができ、プロイセンがドイツを統一しました。
ドイツ帝国の初代皇帝には、プロイセン王のヴィルヘルム1世が即位。
帝国宰相にはビスマルクが就任しました。
議会は、連邦参議院と帝国議会の2つが作られました。
ビスマルクの内政
ビスマルクの内政で特徴的なのは
- 輸入品への関税
- カトリックや社会主義者の弾圧
- 社会保障の充実
です。くわしく説明します。
保護関税法
ビスマルクは保護関税法を制定しました。
ドイツ国内の産業を守るため、輸入品に関税をかける法律です。
文化闘争
また、ビスマルクは、帝国を維持するため、じゃまになる可能性のあるカトリックや社会主義者を弾圧しました。
和を乱すものはゆるさん!
ドイツ帝国はプロテスタント中心の国だったため、カトリックが弾圧されました。
ビスマルクのカトリック弾圧政策と、それに対する反発を文化闘争といいます。
社会主義者鎮圧法
1875年、世界最初の社会主義政党であるドイツ社会主義労働者党がつくられました。
社会主義とは、労働者や失業者を救済しようとする考え方です。
これにあわせてビスマルクは社会主義者鎮圧法を制定し、社会主義を弾圧しました。
また、労働者が社会主義運動をおこさないように、災害保険や疾病保険といった社会政策を充実させて、 国が労働者の生活を守るようにしました。
ワシだって、ただ厳しいだけじゃないのよ
ビスマルクの外交
フランスとロシアがドイツに攻め込む希ガス
ビスマルクは、フランスが、ロシアと手を組んでドイツを攻撃してくることを警戒していました。
そのため、フランスが手を組みそうな国とは先にドイツが仲良くして、フランスをぼっち状態にしようとしました。
また、いがみ合う他の国を仲直りさせつつ、ドイツに都合のいい同盟を量産しました。
ビスマルクの巧みな外交と量産した同盟によって形成された19世紀後半のヨーロッパの同盟関係を「ビスマルク体制」と呼びます。
ただ、イギリスはこの時代、 圧倒的な工業力と軍事力があったので、 どの国とも同盟を結ばず孤立を保っていました。 この状態を「光栄ある孤立」といいます。
ビスマルクがかかわった会議と同盟は
- 1873年、三帝同盟を締結
- 1878年、露土戦争についてのベルリン会議を主催(三帝同盟は消滅)
- 1882年、三国同盟を締結
- 1887年、再保障条約を締結
- アフリカ分割に関するベルリン会議を主催
などです。一つずつ説明していきます。
(ベルリン会議は2つあります。どちらも主催者はビスマルクです。)
三帝同盟
1873年、ビスマルクはドイツ・ロシア・オーストリアの三帝同盟を結びました。
バルカン半島をめぐって仲が悪かったロシアとオーストリアの仲を取り持ってあげた、というのがタテマエです。
秘技!仲直り(といって自分もちゃっかり入る)同盟!
ベルリン会議
1877年、ロシアとオスマン帝国のロシア=トルコ戦争 (露土戦争)が起きます。
くわしくは別記事にありますので、ぜひごらんください。
ロシアが得をする講和条約の内容に、イギリスやオーストリアなどが反対。
そこで1878年、ビスマルクの主催でベルリン会議が開かれました。
なぜ全然関係ないドイツで会議をしたかというと、ビスマルクは自分のことを「公正な仲介人」といっていたから。
ヨーロッパの国々のもめ事を解決するのはワシ!
そうやって各国に恩を売ったり、ドイツに都合のいい同盟関係を作ろうとしました。
会議の結果、ロシアはサン=ステファノ条約を破棄し、ヨーロッパ諸国との間にベルリン条約を結ぶことになり、ロシアの取り分が少なくなりました。
このときロシアとオーストリアはまた仲が悪くなったので、三帝同盟はなくなりました。
さすがにロシアさん怒っちゃったよー
三帝同盟の消滅後、ビスマルクはロシアとオーストリアが不仲にならないように内容を調整し、再びドイツ・ロシア・オーストリアが手を結ぶ新三帝同盟が結成されました。
しかしこの同盟も1887年に消滅しました。
三国同盟
1881年、フランスがアフリカのチュニジアを保護国化しました。
同じくチュニジアを狙っていたイタリアは、フランスと不仲になります。
ドイツからしたら、イタリアと仲良くなるチャンスです。
イタリアは、オーストリアと「未回収のイタリア」問題をめぐって仲が悪かったので、ビスマルクはこれを利用します。
「未回収のイタリア」とは、イタリア人が多く住んでいるのに、イタリア以外の領土になっている地域のことです。
1882年、イタリアとオーストリアの仲裁という形で、ドイツも加えた三国同盟を結成しました。
再保障条約
ビスマルクは、1887年~1890年、ロシアと再保障条約を結びました。
これは、どちらかの国が他国と戦争しても、中立の立場を守るという秘密条約です。
「オーストリアとロシアが戦争になってもドイツはどちらにも味方しない」という内容なので、三国同盟を結んでいるオーストリアにはナイショで約束しました。
こうしてドイツはロシア・オーストリア・イタリアと協力関係をつくり、フランスは孤立…という、ビスマルクの計画通りの状況が完成しました。
夜神月レベルの「計画通り」
ビスマルクは、植民地問題でもめた国々の調停も行いました。
ベルリン会議 (ベルリン=コンゴ会議)
ビスマルクは1884~1885年、アフリカの植民地化について話し合うベルリン会議(ベルリン=コンゴ会議)を開きました。
ベルリン会議では、ベルギー国王のコンゴ支配が認められ、コンゴ自由国ができました。
また、ドイツは1884年にカメルーンを領有しました。
アフリカがヨーロッパ各国に占領される状況は、こちらの記事で詳しく書いています。
おわりに
ヴィルヘルム1世のもとでプロイセン首相になったビスマルクは鉄血政策でドイツ帝国の樹立を果たし、外交ではたくさんの国際会議や同盟にかかわりました。
しかしビスマルクは次のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に辞めさせられてしまいます。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。