高校世界史の範囲を中心にした中国の歴史について解説していきます。
前回は清で1796年におきた白蓮教徒の乱からアヘン戦争・アロー戦争・太平天国の乱・清仏戦争などについてまとめました。
今回は清王朝の時代の末期、日清戦争から、説明していきます。
日清戦争の説明のため、当時の日本と朝鮮半島の解説からしていきます。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
19世紀後半の日本
日本の開国と明治維新
![黒船](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/黒船.png)
1853年、アメリカのペリーが蒸気機関の船で日本にやってきて開国を求めました。
アメリカの蒸気船に驚いた江戸幕府は1854年に日米和親条約、1858年に日米修好通商条約という不平等条約を結び、鎖国をやめて開国しました。
また、清とは1871年に日清修好条規、ロシアとは1875年に国境を決めた樺太・千島交換条約が結ばれました。
1867年に江戸幕府はなくなり、為政者や社会制度がガラッと変わる明治維新がはじまりました。翌年の1868年が明治元年となります。
ヨーロッパを手本にして、1889年に大日本帝国憲法がつくられ、翌年には第一回の議会が開かれました。
台湾出兵と琉球処分(琉球領有)
沖縄の琉球王国は江戸時代に両属体制といって中国・日本の両方の属国となっていました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/china7-160x90.png)
琉球の船員が台湾で殺された事件を口実に、日本の明治政府は1874年、台湾に出兵しました。この台湾出兵が近代日本最初の海外出兵です。日本は清から賠償金を受け取り、兵を引きあげました。
清が琉球のことで日本に謝ったことで、日本政府は「清朝が琉球を日本の領土だと認めた」と解釈し、琉球王国に清との関係を断ち切らせ、強制的に日本へ統合しました。この流れを琉球処分(琉球領有)といいます。1879年(明治12年)には琉球は沖縄県になりました。
この件でに清と日本との関係は悪くなりました。
19世紀後半の朝鮮
閔氏の独裁
19世紀後半、朝鮮王朝の国王高宗の時代、実権をもっていたのは、高宗の父親である大院君(たいいんくん)でした。
しかし高宗の奥さんの閔妃(びんひ)の一族である閔氏(びんし)が大院君を失脚させ、独裁政治をおこなうようになります。
江華島事件→日朝修好条規
1875年、日本と朝鮮の武力衝突である江華島事件が起こりました。日本はこの件で朝鮮に抗議し、開国を迫りました。
当時の朝鮮は鎖国していて、日本は朝鮮の国内にはいれませんでした。
翌年、不平等条約である日朝修好条規が締結されました。朝鮮は開国し、釜山(ぷさん)・元山(げんさん)・ 仁川(じんせん)の3港を開港しました。
壬午軍乱と甲申政変
不平等条約のあと、朝鮮国内では政権の中心である閔氏への批判が高まりました。
1882年、大院君を支持する軍隊が壬午軍乱(じんごぐんらん)という反乱を起こしました。大院君政権は一時復活しましたが、日本と清が内政干渉して出兵したことで反乱は鎮圧、閔氏政権が復活しました。
2年後の1884年、政治家の金玉均(きんぎょくきん)らは閔氏を倒すため、日本の支援によって甲申政変というクーデタを起こしました。しかし清の軍事介入によって鎮圧されました。
日清戦争
甲午農民戦争→日清戦争
東学の幹部の全琫準(ぜんほうじゅん)は、 朝鮮から外国勢力を追い出すため、信者や農民を率いて1894年に甲午農民戦争という反乱を起こしました。
東学は、崔済愚(さいせいぐ)という人が19世紀中ごろの朝鮮ではじめた宗教です。
反乱をおこされた閔氏政権は清に助けを求めました。それに応えて清が出兵すると、同時に日本も朝鮮にいる日本人の保護を口実に出兵を行いました。
こうして1894年、甲午農民戦争をきっかけに、朝鮮をおもな戦場とする日清戦争が始まりました。
戦いは日本優勢ですすみ、日本軍は清の本土まで侵攻しました。
下関条約
![条約・和解](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/条約.png)
日清戦争は日本が勝ちました。日本代表の伊藤博文・陸奥宗光と清代表の李鴻章が話し合い、1895年に清と下関条約が結ばれました。
朝鮮は17世紀以降、清の事実上の属国となっていましたが、この条約で、清は朝鮮が独立国であることを認め、朝鮮に干渉することはできなくなりました。
(清から独立した朝鮮はこのあと、1897年に大韓帝国という国号に変更しました。)
さらに日本はこの条約で、中国から
- 台湾
- 台湾の近くの澎湖諸島 (ほうこしょとう)
- 朝鮮に近い遼東半島
などの領土や、欧米の各国が清にもつのと同じ通商上の特権、賠償金などを得ました。
しかしロシア・ドイツ・フランスの3国が下関条約の内容にクレームをつけてきました。これを三国干渉といいます。
日本は三国干渉に応じて遼東半島を清に返還しました。また、三か国は見返りとして清の土地を租借したり、鉄道敷設権をもらいました。
同年、日本は、こんどはロシアに接近しようとした閔妃を暗殺しました。
中国分割
![近代中国地図](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/近代中国地図_s.png)
19世紀の中国はヨーロッパ列強や日本によって支配されていきました。これを中国分割といい、日清戦争の後にはげしくなりました。
中国は多額の賠償金を払うために列強から借款(しゃっかん) を行いました。清の政府が列強諸国の政府に借金をしたということです。
そのとき中国は担保として鉄道敷設権や鉱山採掘権をとられ、中国の領土も租借(そしゃく)という借りパクのような形で列強にとられてしまいました。
- ドイツは膠州湾(こうしゅうわん)
- ロシアは遼東半島南部の旅順・大連という都市
- イギリスは威海衛(いかいえい)という港・香港の近くの九竜半島
- フランスは広州湾
- 日本は台湾の向かいの福建省
を勢力範囲としました。
ロシアが租借地とした遼東半島南部の旅順・大連地区は、 日露戦争後に日本の租借地となりました。
この流れに乗り遅れて焦ったアメリカは、1899年に国務長官ジョン=ヘイが門戸開放宣言を発表し、アメリカも中国分割に入れてほしいなー!とアピールしました。ただ、アメリカが門戸開放宣言を発表した頃には、中国分割はかなり進展していました。
戊戌の変法
19世紀末期に清の皇帝となった光緒帝 (こうしょてい)は、日清戦争の後、康有為(こうゆうい)や梁啓超 (りょうけいちょう)らを官僚に登用し、近代化改革を試みました。これを戊戌の変法 (ぼじゅつのへんぽう)といい、議会政治と立憲君主制の確立を目指しました。
しかし1898年に皇帝の伯母の西太后ら保守派のクーデターによって失敗しました。この出来事を戊戌の政変(ぼじゅつのせいへん)といいます。
このときは改革のじゃまをした西太后ですが、のちに光緒新政という改革をおこないます。
義和団事件
19世紀後半から仇教運動(きゅうきょううんどう)が中国各地で起きました。仇教運動とは中国での反キリスト教運動ですが、しだいに外国勢力を追い出す運動にもなっていきました。
この運動の中心となった義和団という宗教団体は「扶清滅洋(ふしんめつよう)」(清を扶(たす)けて、外国(洋)を滅ぼす)のスローガンを掲げました。
義和団が中心となって起こした反キリスト教・外国人排斥運動のことを義和団事件といいます。
1851~1864年の太平天国は清を倒そうとしましたが、この義和団は清を助けようとしました。また、義和団にはとくに有名なリーダーはいません。
1900年6月に義和団が北京を占領すると、中国政府(清朝)は、義和団を支持して欧米や日本に宣戦布告しました。暴動の集団と政府が協力した珍しいパターンです。
8カ国共同出兵
![進軍](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/町への攻撃.png)
イギリス・フランス・アメリカ・日本・ロシアなどの8か国は、義和団と清朝に売られたケンカを買い、1900年に8カ国共同出兵を行いました。連合軍は義和団を鎮圧し、北京を占領しました。
敗れた清は1901年、列強との間に北京議定書を締結し、半植民地化されてしまいました。清は巨額の賠償金のほか、外国軍隊の北京駐兵権を認めさせられました。
ここからはしばらく日本の話になります。
日露戦争
![戦争](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/争い.png)
ロシアは義和団事件の際に中国東北地方(満州)を占領し、事件後も居座りました。これで朝鮮や中国東北部への進出をねらっていた日本とロシアの対立が深まりました。1902年、ロシアを警戒した日本とイギリスは日英同盟を結びました。日本とロシアの不仲はつづき、1904年に日本が攻撃を仕掛けて日露戦争が開戦しました。
日本海海戦では日本が勝利しました。また、戦争中にロシア国内で第一次ロシア革命が起き、ロシア不利のまま、講和条約のポーツマス条約が結ばれました。講和をすすめたのはアメリカ大統領のセオドア=ローズヴェルトです。
ポーツマス条約により、日本は韓国の指導・監督権を認められ、さらに遼東半島南部の租借権、および南樺太の領土、南満州鉄道とその沿線の利権を得ました。
日露戦争のあと、中国への進出をはじめたアメリカを警戒し、日本とロシアはアジアでのお互いの勢力圏を決めた日露協約を結びました。こうして日本はさらに大陸へ侵出しました。
日本による韓国併合
統監府
日露戦争中の1904年から、日本は朝鮮(韓国)と数回にわたる日韓協約を結び、韓国の植民地化をすすめました。第2次日韓協約で韓国は保護国化され、外交権を日本に奪われました。
日本は、韓国の外交を管理し、内政を監視する統監府という役所をつくり、その長官である統監に伊藤博文がなりました。
こういう状況なので、20世紀初頭の韓国では反日運動の義兵闘争が各地で起きました。
ハーグ密使事件
1907年には、日清戦争のくだりで出できた韓国皇帝の高宗が、オランダのハーグで開かれていた第2回万国平和会議に密使をおくる事件が起こりました。これをハーグ密使事件といいます。
韓国の密使は「日本の韓国支配を止めて!」とうったえましたが、会議にきていた各国の代表にはとりあってもらえませんでした。
日本はこの事件を口実に高宗を退位させました。また、韓国に第3次日韓協約を締結させ、韓国の内政権を奪いました。
韓国併合と朝鮮総督府
韓国では反日感情が高まり、1909年には初代統監の伊藤博文が、韓国で安重根に暗殺されました。
この事件を受けて、日本は1910年に韓国併合を行い、韓国を完全に日本の植民地としました。
同じ年、日本は朝鮮総督府を設置し、朝鮮の軍事・行政すべてをとりしきりました。
朝鮮総督府は天皇直属の機関とされ、憲兵や軍隊などの武力による支配を行いました。これを武断政治といいます。また朝鮮総督府は土地調査事業を行い、韓国内の所有者のわからない土地を農民から没収しました。
韓国併合前に韓国を保護国にした段階でつくったのが統監府
韓国併合後につくったのが朝鮮総督府です。名前が似ているので気をつけましょう。
三・一独立運動
![民衆](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/集団.png)
朝鮮の人びとは、第一次世界大戦後に提唱された民族自決の考え方に強い影響を受けました。
民族自決とは「各民族が自分たちでものごとを決めるべき。他民族や他国が干渉してはいけない」という考え方です。
この流れで1919年3月1日、朝鮮で三・一独立運動が起きました。このとき中国の上海に、李承晩(イスンマン)が大韓民国臨時政府をつくりました。
大韓民国臨時政府という名前ですが、大韓民国が成立するのは第二次世界大戦後です。李承晩は大韓民国の初代大統領となりました。
三・一独立運動を受けて、朝鮮総督府はそれまでの、暴力による武断政治から、日本文化の強制によって、朝鮮を日本に同化させる文化政治へとかわっていきました。
また同年5月4日には、清から中華民国になった中国でも抗日運動の五・四運動が起きています。
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おわりに
- 日清戦争と、そのあと本格化した中国分割
- 義和団事件と8か国共同出兵
により、清は国土や利権を奪われていきました。
清の上層部は戊戌の変法や光緒新政などによって国をたてなおそうとしましたが、失敗しました。
また日本は日清戦争、日露戦争、韓国併合などによって勢力をのばしていきました。
最終的には辛亥革命により、清は滅亡します。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。