世界史ドイツ編(4)ヴィルヘルム2世の世界政策とドイツ帝国の崩壊

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ヨーロッパ各国史(英・仏以外)

ドイツ周辺(ドイツやオーストリアなど)の歴史をたどるシリーズ記事。今回は4回目です。

前回、プロイセンの首相ビスマルク鉄血政策ドイツ帝国の樹立を果たし、外交ではたくさんの国際会議や同盟にかかわったことを解説しました。

しかしビスマルクは次のドイツ皇帝ヴィルヘルム2世に辞めさせられてしまいます。

・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。

記事の読み上げ音声もあります。

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ヴィルヘルム2世の即位とビスマルクの辞職

1888年、ヴィルヘルム2世がドイツ帝国の皇帝となります。

新しい皇帝はビスマルクと対立しました。

ヴィルヘルム2世は、どんどん海外に侵攻して植民地をふやすべきだ。

しかしビスマルクは侵攻には慎重な意見でした。

ヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世

ビスマルクじゃま💢

1890年、ヴィルヘルム2世は首相ビスマルクを辞職させ、ビスマルクがつくった法律や同盟を廃止していきました。

内政では、ビスマルクが制定した社会主義者鎮圧法を廃止

同盟では、ビスマルクが秘密裏に結んだロシアとドイツの再保障条約を更新拒否し、破棄しました。

その後ロシアはフランスと接近して、19世紀末に露仏同盟をつくりました。

ビスマルク
ビスマルク

わしが作った内政や外交関係をぶちこわしおって!
あんな皇帝は追放されてしまえ!

ドイツ社会民主党の誕生

ドイツでは1890年に社会主義者鎮圧法が廃止されたため、社会主義運動が合法となります。

この年に、ひっそり活動を続けていたドイツ社会主義労働者党が表に出るようになり、ドイツ社会民主党と改名。

ドイツ社会民主党は初め、マルクス主義理論に基づく暴力革命をすすめていました。

しかし、しだいに暴力ではなく、議会での活動によって社会主義をひろめる修正主義に方針転換しました。

ヴィルヘルム2世の対外政策

ヴィルヘルム2世の海外政策について説明します。

世界政策とパン=ゲルマン主義

ヴィルヘルム2世は、どんどん海外侵出して植民地をふやす帝国主義政策をとりました。

世界政策」といいます。

また、領土拡大を正当化するために、パン=ゲルマン主義という考え方を利用しました。

これは全ドイツ系民族が団結して、ドイツ帝国の世界制覇をめざすべき、という主張です。

バグダード鉄道と3B政策

線路

ヴィルヘルム2世は、バグダード鉄道をつくり、

  • ドイツ帝国の首都ベルリン
  • ビザンティウム(イスタンブル)
  • 現在のイラクの首都バグダード

の3つの都市を線路でつなげて中東に進出しようとしました。これを3B政策といいます。

3B政策では、ロシアもねらっているバルカン半島を支配する必要があるため、ロシアとの仲が悪くなりました。

海軍の拡張宣言

ヴィルヘルム2世は、植民地を得るためには強い海軍が必要と考えます。

そのため当時世界最強の海軍をもつイギリスに対抗して海軍の拡張を宣言しました。

このためドイツは、イギリスとも仲が悪くなりました。

モロッコ事件

戦艦

20世紀の初め、ドイツはフランスと、モロッコの支配をめぐり2回対立しました。

これをモロッコ事件といいます。

1度目は1905年、フランスのモロッコ進出の動きに反対して、ヴィルヘルム2世がみずから艦隊を率いてモロッコのタンジール港にのりこんだ事件です。

この時国際会議が開かれ、フランスのモロッコ進出が黙認されました。

ヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世

くやしー💢

2度目は、1911年にヴィルヘルム2世がモロッコのアガディール湾に軍艦を派遣してフランスに圧力をかけた事件です。

再び戦争が起きそうになりましたが、英仏協商を結んでいたイギリスがハッキリとフランス支持をうちだしたため、ドイツは撤退しました。

このいきおいでフランスは1912年にモロッコを保護国化しました。

このように、ヴィルヘルム2世の政策により、ドイツはイギリス、ロシア、フランスと仲が悪くなってしまいました。この3か国は、新たな三国協商という同盟をつくりました。

中国分割

また、ドイツは中国(清)に関しては

  • 日清戦争のあと、1895年、ロシア・フランスと共に日本に三国干渉を行い、遼東半島を清に返還させました。
  • 1898年に清から膠州湾を租借しました。
  • 清で義和団事件が起きたとき、ほかの国と共同で8カ国共同出兵を行い、北京を占領しました。

当時の中国のできごとについては、こちらの記事にあります。

第一次世界大戦

反戦

ヴィルヘルム2世の政策の結果、ドイツと敵対するようになったイギリス・フランス・ロシア三国協商を作って団結しました。

三国協商は、ビスマルクが作ったドイツ・オーストリア・イタリア三国同盟と対立します。この対立が一因となり、1914年に第一次世界大戦がはじまりました。

大戦中のようすは、別の記事に詳しく書いています。

三国同盟のうち、イタリアは裏切り、オーストリアは先に降伏したため、ドイツは不利な戦況になります。

そんな第一次世界大戦の末期、ドイツ国内でドイツ革命が起きました。

ドイツ革命

1918年11月、戦争中止を求めたドイツ兵たちによるキール軍港の水兵反乱が起きました。

反乱の動きは広がり、各地で兵士や労働者がレーテ(評議会)をつくって蜂起しました。

レーテは、労働者や兵士の代表が集まる会議で、ロシアのソヴィエトと同じような組織です。

ついに皇帝ヴィルヘルム2世が亡命・退位し、ドイツ帝国は消滅しました。

ヴィルヘルム2世
ヴィルヘルム2世

無念…

新たにできたドイツ共和国の政府が連合国とドイツ休戦協定を結び、第一次世界大戦は終わりました。

キール軍港の水兵反乱にはじまり、ドイツ帝政が打倒された出来事をドイツ革命といいます。

スパルタクス団の武装蜂起

第一次世界大戦中、ドイツでは「スパルタクス団」という社会主義団体がつくられました。

リーダーは、カール=リープクネヒトローザ=ルクセンブルクの2人。

スパルタクス団は終戦後にドイツ共産党と改名し、社会主義革命のために1919年に武装蜂起しましたが、鎮圧され、2人のリーダーも命を絶たれました。

オーストリア=ハンガリー帝国解体

オーストリアも第一次世界大戦の敗戦国となりました。

ハプスブルク家の皇帝は退位し、オーストリア=ハンガリー帝国解体されました。

オーストリアは共和国になり、ポーランドやハンガリーがオーストリアから独立しました。

おわりに

宰相ビスマルクをクビにしたドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世はパン=ゲルマン主義をかかげて「世界政策」という帝国主義政策をおこない

  • 中東に進出をめざす3B政策
  • 海軍の増強
  • ロシアとの再保障条約の更新を拒否
  • モロッコ事件

などをやった結果イギリス・フランス・ロシアと仲が悪くなり、3国が三国協商として手を結ぶことになりました。

イギリス・フランス・ロシアの三国協商は、ビスマルクが作ったドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と対立します。この対立はやがて第一次世界大戦へと発展します。

第一次世界大戦末期のドイツ革命でヴィルヘルム2世は王位を追われ、ドイツ帝国は消滅しました。

次回はこちらです。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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