高校世界史の範囲を中心にしたロシア・北欧・東欧の歴史について数回に分けて解説していきます。
今回は1回目です。中世ぐらいの東欧・北欧・ロシアについて、ある程度くわしく、そして簡単に説明します。
東・北ヨーロッパの地図
![北・東ヨーロッパ地図](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/s.jpg)
北欧・東欧の地図です。
地理は苦手なので、ざっくりとした地図です。
国境は現在のものです。
デンマーク・スウェーデン・ノルウェー・フィンランドは北欧といわれます。
ただ、デンマークからノルウェーまで陸路で行こうとすると、すごく遠そうですね。
エストニア・ラトビア・リトアニアは、まとめて「バルト三国」とよばれています。
「エ・ラ・リー=クイーン」と覚えるのはどうでしょう?
バルト三国の隣のポーランドは、ドイツ(地図には入っていませんが、西のほうの隣です)、チェコ、ウクライナなど、いろんな国ととなりあっています。
ウクライナを流れているのが、ドニエプル川。
ウクライナとハンガリーのあいだくらいにあるのが、カルパティア山脈です。
黒海ににょきっと飛び出ている半島が、クリミア半島です。
黒海より奥のほうに、アゾフ海という海があります。
黒海からイタリア方面に出るときは、ダーダネルスとボスフォラスという、2つの海峡を通り抜けます。
二つ合わせて、ダーダネルス・ボスフォラス両海峡といわれます。
黒海には、ウクライナ・ルーマニア・ブルガリア・トルコなどの国が面しています。
こうしてみると、トルコってヨーロッパに近いですね。
ブルガリアなどがある、大きな半島がバルカン半島です。
半島の付け根にあるスロヴェニア、
「く」の字の地形のクロアチア、
その隣のセルビアなどがあります。
スラヴ人
スラヴ人はもともと、東ヨーロッパのカルパティア山脈の北部から、黒海につづくドニエプル川流域あたりに住んでいた人たちです。
だんだんと住む地域を広げ、
- 西スラヴ人
- 南スラヴ人
- 東スラヴ人
の3つに大きく分かれました。
西スラヴ
西スラヴ人にはポーランド人、チェック人などが住んでいて、隣にある神聖ローマ帝国のカトリックを信仰しました。
チェック人は10世紀、現在のチェコにベーメン(ボヘミア)王国を建国しました。11世紀以降は神聖ローマ帝国の一部となりました。ここでは宗教改革のあと
- フス戦争
- 三十年戦争のきっかけとなるベーメン反乱
などが起きました。
▼フス戦争について知りたいかたはコチラの記事の「コンスタンツ公会議」をごらんください▼
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/anagni-160x90.jpg)
▼三十年戦争について
ポーランド人は14世紀にリトアニア人のリトアニア大公国と合体し、14世紀にヤゲウォ朝を建国しました。
南スラヴ
南スラヴ人は、バルカン半島に住んだスラヴ人です。
この地域は神聖ローマ帝国とビザンツ帝国に挟まれていたため、カトリックとギリシア正教の信者の両方がいました。
ギリシア教会ではスラヴ人への布教のためにキリル文字をつくりました。この文字は現在のロシアなどで使われている文字の原型になっています。
南スラヴ人のうち
- セルビア人はギリシア正教
- クロアティア人やスロヴェニア人はカトリック
を信仰しました。
東スラヴ
東スラヴは現在のロシアやウクライナにあたる地域で、ギリシア正教が信仰されていました。
ここにノルマン人の一派であるルーシ(ルス)という人たちがやってきて、862年、ルーシの首領のリューリクがノヴゴロド国を建国しました。ノルマン人は現地の東スラヴ人との混血が進み、次第にスラヴ化していき、地元のスラヴ人文化になじんでいきました。
その後、882年に南のドニエプル川流域にキエフ公国ができ、ノヴゴロド国を併合しました。10世紀、キエフ公国の国王ウラディミル1世がギリシア正教を国教にしました。
しかし13世紀、この地域はモンゴル人に支配されました。この状態を「タタールのくびき」といいます。
モンゴル人の支配が弱まった後にはモスクワ大公国が栄えました。このページの少し後で説明します。
その他の民族
バルカン半島にブルガリア帝国(ブルガリア王国)をつくったブルガール人は、もともとトルコ系の遊牧民でしたが、しだいにスラヴ人と同化していきました。
マジャール人は東フランク王国のオットー1世に負けたことでも知られています。11世紀にハンガリー王国をつくり、カトリックを信仰するようになりました。
現在のハンガリーでも自分たちのことを「マジャール」と呼んでいます。日本でもそのうち呼び名が「マジャール」に変わるかもしれませんね。
つぎは北欧のようすです。
カルマル同盟
北欧のデンマークについては、以前、11世紀にクヌートが活躍したことを書きました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/eng1-160x90.jpg)
その後の北欧では、1397年にデンマークのマルグレーテ女王がノルウェー、スウェーデンの実質的な王もかねる同君連合のカルマル同盟が結成されました。
同君連合とは、複数の国が同じ人を君主とする連合です。
カルマル同盟によってデンマーク、ノルウェー、スウェーデンの3国が合体したデンマーク連合王国が誕生しました。その後1523年、スウェーデンの独立により解消しました。
つぎは、さきほどチラッと出てきたロシアのモスクワ大公国についてです。
モスクワ大公国
13世紀頃、ロシアでは、モンゴル人の支配が弱くなり、モスクワ大公国ができました。
1462年、モスクワ大公国の大公になったイヴァン3世は、ビザンツ帝国最後の皇帝の姪と結婚し、「ビザンツ帝国を引き継ぐ者」としてツァーリ(皇帝)という称号を非公式に自称しました。
![イヴァン3世](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/cute_ousama_chair_8540-コピー.png)
ビザンツ王に俺はなる!
ビザンツ帝国は1453年にオスマン帝国に滅ぼされました。
その孫のイヴァン4世(雷帝)は16世紀、ツァーリの称号を正式に使いました。
またこのころ、南ロシアに住んでいたコサックという集団のリーダーであるイェルマークがシベリアを征服しました。イヴァン4世は、このシベリアをモスクワ大公国の領土に併合しました。
おわりに
スラヴ人は大きく西スラヴ・南スラヴ・東スラヴの3つに分かれます。東スラヴにはノルマン人が国をつくりましたが、次第にスラヴ化していきました。
次回はモスクワ大公国のあとにできたロシアのロマノフ朝が中心のはなしになります。
▼次回の記事はこちらです
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/romanov-160x90.jpg)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。