イギリスの歴史(1)【中世のノルマン朝・百年戦争・プランタジネット朝】

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イギリスの歴史

イギリスの歴史について数回に分けて書いていきます。今回は第1回です。

イギリスには、先住民のケルト人が住んでいましたが、海の向こうから来た人たちに侵略されました。

・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。

記事の読み上げ音声もあります。

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イギリスの地理

さきに、イギリスの歴史でよく出てくる地名を紹介しておきます。

イギリスの地理

イギリスで一番大きい島は大ブリテン島(ブリタニア)といいます。日本でいうと本州です。

大ブリテン島(ブリタニア)はさらに

  • 西部のウェールズ
  • 北部のスコットランド
  • 中部・南部のイングランド

などに分かれます。

また、大ブリテン島(ブリタニア)の西には、アイルランドという島があります。

古代のイギリス

イギリスの大ブリテン島では、もともと先住民のケルト人がくらしていました。

しかしカエサルなどのローマ人に侵略され、ローマの属州ブリタニアとなります。

ゲルマン人王朝→ノルマン朝

ローマ帝国の末期になると、ローマ人の支配は弱まりました。

しかしゲルマン人の大移動がはじまり、ゲルマン人の一部のアングロ=サクソン人が、大ブリテン島に移住してきました。

アングロ=サクソン人はイングランドを支配し、449年にアングロ=サクソン七王国(別名ヘプターキー)をつくりました。

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その後七王国は829年、王のひとりエグバートに統一されて、イングランド王国となります。

クヌートによるイングランド征服

9世紀末、ノルマン人の一派であるデーン人が、アルフレッド大王がおさめるイングランドに侵攻しましたが、撃退されました。

しかしアルフレッド大王の死後、デーン人の国であるデンマークの王子クヌートが1016年にイングランドを征服しました。

クヌートはイングランド、デンマーク、ノルウェーという広い範囲を支配しました。

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クヌートは「ヴィンランド・サガ」という漫画に登場しているので、知っている方も多いかもしれません。

ノルマンディー公ウィリアムによるイングランド征服

征服
征服

クヌートのイギリス支配は一代きりで終わり、彼の死後、アングロ=サクソン系の王朝が復活しました。

しかし今度はノルマンディー公国が1066年にイングランドに攻め込んできました。

ノルマンディー公国は、ノルマン人の首領ロロがたてた、北フランスの国です。

ノルマンディー公ウィリアムは、イギリスを征服してノルマン朝(1066~1154年)をつくり、ウィリアム1世として即位しました。

この征服をノルマン・コンクエストと呼び、ウィリアム1世は「征服王」とも呼ばれます。

ウィリアム1世は、イングランドと北フランスの両方を支配しました。

また、イギリスの国王と、フランス国王の家臣ノルマンディー公を兼任しました。

プランタジネット朝

ノルマン朝が100年足らずで断絶した後、親戚のヘンリ2世によってプランタジネット朝(1154~1399)が始まりました。

この時代に憲法の基礎である大憲章マグナ=カルタ)が作られ、議会制度も始まりました。
また、百年戦争もこの時代の出来事です。

初代・ヘンリ2世

初代国王のヘンリ2世は、フランス貴族の出身だったので、イギリスの領土だけでなく、フランスにも大きな領地をもっていました。

フランス王にとっては、このことが不愉快だったので、ヘンリ2世の即位後、イギリスとフランスの関係は悪化しました。

フランス王
フランス王

ヘンリ2世・・・うらやましい!

ジョン王

大憲章(マグナ=カルタ)

次のジョン王は、大きな失敗を連発します。

  • 1209年、教会の力が絶大だった時期の教皇インノケンティウス3世に破門されます。
  • 1214年にはフランス王フィリップ2世に、フランスにあったイギリス領の大半を奪われました。
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「これ以上ジョン王を自由にさせてたらヤバいぞ!」と怒った貴族たちは、国王の権利を制限するため、1215年、ジョン王に大憲章マグナ=カルタ)を認めさせました。

マグナ=カルタでは、国王が課税するときには貴族たちの会議で同意をもらわないといけない、などが決まりました。

マグナ=カルタは、今でもイギリスの憲法の一部とされています。

ヘンリ2世とジョン王の間にはリチャード1世という王がいました。第3回十字軍でサラディンと戦って活躍したので「獅子心王」の二つ名をもっています。しかし戦場に出ている期間が長かったので、内政の面で目立ったことはありませんでした。

諮問議会と模範議会

次のヘンリ3世は、マグナ=カルタを無視して、貴族の許可なく税をとろうとしました。

貴族のシモン=ド=モンフォールは怒って反乱を起こし、ヘンリ3世に議会をひらかせました。

1265年に諮問議会が開かれ、貴族や聖職者・騎士など、さまざまな身分の代表者が集まり、国王の政治について話し合いました。これが、イギリス議会のはじまりとなりました。

シモンが開いたシモン議会

その次の、1272年に即位したエドワード1世は、課税する前にちゃんと議会をひらきました。これを模範議会といいます。各身分の代表者をあつめた身分制議会でした。

議員
議員

ちゃんと議会ひらくなんて、エドワード1世って模範的~!

エドワード3世

1327年に即位したエドワード3世の時代には、議会は

  • 貴族や聖職者からなる上院(貴族院)
  • 騎士やジェントリなどの市民からなる下院(庶民院)

の二つに分ける二院制となりました。

ジェントリは、地方の中小地主や工場主で、身分的には、貴族と農民の中間の人たちです。

イギリスでは中央の政治は議会が担っていましたが、地方の政治はジェントリ(郷紳)が無給でやっていました。

また、エドワード3世が、「自分がフランスの新しい王になる!」と主張したことにより、イギリスとフランスが百年戦争(1339年〜1453年)を始めました。

百年戦争は別の記事になります。

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百年戦争の期間には、ペストの流行や、農民反乱であるワット=タイラーの乱(1381年)が起きました。

百年戦争は、最初はイギリスが優勢でしたが、だんだん不利になります。最終的に、イギリス軍はカレーというフランス北部の町だけを残して撤退しました。

百年戦争の途中でプランタジネット朝は断絶しました。

バラ戦争

バラ戦争

百年戦争の後、イギリスでは、1455年からバラ戦争が始まりました。
それぞれ赤バラと白バラを家紋にしていたランカスター家ヨーク家が王位をめぐって戦いました。

他の貴族もランカスター派とヨーク派に分かれて争い、30年に及ぶ内乱になりました。
一瞬ヨーク家がイギリスを支配しますが、ランカスター家の親戚のテューダー家に倒されました。
この後、新しい王朝テューダー朝の時代となります。

おわりに

今回はここまでです。イギリスの王朝は

  1. アングロ=サクソン七王国(別名ヘプターキー
  2. イングランド王国
  3. クヌートによる支配
  4. ノルマン朝
  5. プランタジネット朝

と、変わっていきました。

プランタジネット朝が断絶したあと、王位をとりあうばら戦争が起き、テューダー朝ができました。

次回はテューダー朝についてです。

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最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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