高校世界史の範囲を中心にした現代の歴史について解説していきます。
第二次世界大戦のあと「冷戦」という対立状態になったアメリカ合衆国陣営とソ連(ロシア)陣営を中心に解説していきます。
アメリカの「封じ込め政策」
トルーマン=ドクトリン
アメリカ率いる西側の資本主義勢力と、ソ連率いる東側の社会主義勢力は対立していました。
アメリカは「各国が共産主義・社会主義化すると、ソ連のグループが強くなるから嫌だな」と考えました。
第二次世界大戦末期からアメリカ大統領をつとめるトルーマンは、1947年にトルーマン=ドクトリン(トルーマン宣言)を発表しました。
内容は、ギリシアとトルコを援助し、両国の共産主義化を止める、というものです。
また、このトルーマン=ドクトリンは、社会主義勢力(ソ連陣営)が広がらないように政治的・経済的・軍事的に世界に干渉する「封じ込め政策」を行うという宣言でもあります。
マーシャル=プランと北大西洋条約機構(NATO)
アメリカは「封じ込め政策」の一環として
- 1947年に、ヨーロッパに経済援助を行うマーシャル=プラン(ヨーロッパ経済復興援助計画)を発表しました。
- 1949年4月には、アメリカを中心とする反共軍事同盟の北大西洋条約機構(NATO)が結成されました。
ベルリン封鎖
第二次世界大戦直後から、ドイツはアメリカ・イギリス・フランス・ソ連の4カ国で分割管理されていました。
1948年、西側ドイツ(西側占領地区)で行われた通貨改革に反発したソ連は、報復として、西ベルリンへの道を封鎖して孤立させました。これをベルリン封鎖といい、約1年間続きました。この1年間は、米ソの戦争が起きるのでは、と世界中が恐れました。
第二次世界大戦直後のソ連と東欧
第二次世界大戦直後の東欧
第二次世界大戦後、ポーランド・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリア・アルバニアなどの東欧の国々は、ソ連の影響をうけ、共産党による独裁になりました。
ソ連と東欧の社会主義国と、西欧の資本主義国が分断される様子を、イギリスの元首相チャーチルは「ヨーロッパに鉄のカーテンが降ろされた」と表現しました。
コミンフォルム結成
ソ連を中心とする社会主義陣営は1947年にコミンフォルム(共産党情報局)を結成しました。これは、ソ連共産党をリーダーとする、ヨーロッパ9か国の共産党が連携するための組織です。
しかし、参加国のひとつのユーゴスラヴィアはソ連の指導者スターリンの支配を拒否しました。そのためユーゴスラヴィアはコミンフォルムから除名されました。
ユーゴスラヴィアの当時の指導者ティトーは、第二次世界大戦でパルチザン闘争を展開し、ソ連に頼らずナチス=ドイツ軍に抵抗したことでも知られています。
アメリカ陣営(西側)とソ連陣営(東側)の同盟
チェコスロヴァキア=クーデタ
1948年2月にチェコスロヴァキア=クーデタが起きました。
これにより資本主義国のチェコスロヴァキアで共産党政権が発足しました。
この出来事にショックを受けた西側の資本主義陣営は連携をより深めました。
西ヨーロッパ連合条約
チェコスロヴァキア=クーデタの影響を警戒し、1948年3月、イギリス・フランス・ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の計5カ国は軍事同盟の西ヨーロッパ連合条約(ブリュッセル条約)を締結しました。
OEECとコメコン
1948年4月、資本主義陣営の国々はアメリカがヨーロッパを資金援助するマーシャル=プランの受け入れ機関としてヨーロッパ経済協力機構(OEEC)を設立しました。
一方、社会主義陣営はOEECに対抗して、社会主義国との間で経済的に助け合う経済相互援助会議(COMECON/コメコン)を設立しました。
北大西洋条約機構(NATO)とワルシャワ条約機構
資本主義陣営は1949年4月、アメリカを中心とする12カ国による反共軍事同盟の北大西洋条約機構(NATO)を設立しました。
ソ連と東欧諸国は、NATOに対抗して1955年にワルシャワ条約機構という軍事同盟を結成しました。
アメリカと各国の軍事同盟
1950年代前半のアメリカでは、ソ連や共産主義者を徹底的に批判・排除しようとするマッカーシズムという動きがピークでした。
そんな世の中の1953年、「より積極的にソ連に対抗しよう」とうたったアイゼンハワー(アイゼンハウアー)が支持されて大統領になりました。
1950年代を中心に、アメリカは世界の国々と
- 日本との日米安全保障条約(1951)
- 韓国との米韓相互防衛条約(1954)
- 台湾との米華相互防衛条約(1954)
- オーストラリア・ニュージーランドとの太平洋安全保障条約(ANZUS)(1951)
- 東南アジア条約機構(SEATO)(1954)や中東条約機構(METO)(1955)、アメリカ州機構(OAS)
のような反共軍事同盟を結び、共産国を包囲する作戦に出ました。
ソ連のフルシチョフ就任後の「雪どけ」
1953年、ずっとソ連を独裁していたスターリンが死去し、フルシチョフが書記長に就任しました。
フルシチョフは資本主義側にたいして、歩み寄りの雰囲気をだします。
1955年に米・ソ・英・仏の首脳によるジュネーヴ4巨頭会談では、各国が米ソの共存をはかる平和共存路線を確認しました。
フルシチョフは1956年のソ連共産党第20回大会でも平和共存路線を示し、同時に、スターリンが行った独裁や粛清を批判しました(スターリン批判)。
中国はスターリン批判に反発し、中ソ対立が起きました。
さらにフルシチョフはコミンフォルム(共産党情報局)を解散させたほか、ソ連の指導者として初めてアメリカ訪問を行い、米大統領アイゼンハワーと会談しました。
フルシチョフ就任後、ソ連の国内や外交態度の緊張が少し緩んだこの時期のようすを、ソ連の小説のタイトルをとって「雪どけ」といわれます。
東欧の社会主義陣営の民主化運動
フルシチョフが行ったスターリン批判により、東欧の社会主義陣営の国々の一部が「ソ連離れ」の民主化運動を起こしました。
ポーランド
1956年、ポーランドではポーランド反政府反ソ暴動(ポズナニ暴動)が起こりました。このとき、スターリンに政界を追われたゴムウカがポーランドの要職に復帰しました。ポーランド国民はゴムウカを支持し、暴動は鎮静化しました。
いちど鎮静化したポーランドでしたが、1980年、ワレサが組織したポーランド自主管理労組「連帯」を中心に民主化運動がおこり、1989年に民主化が実現しました。
ハンガリー
1956年、ハンガリーではハンガリー反ソ暴動(ハンガリー事件)が起こりましたが、ソ連が軍事介入し、指導者で首相のナジ=イムレは処刑されました。
ルーマニア
ルーマニアのチャウシェスク政権は、1965年から対ソ独自外交を展開しました。ルーマニアは、ソ連と一定の距離をおき、中国とソ連が対立したときも、どちらにも味方せず中立の立場をとりました。
チャウシェスクはその後しだいに独裁政権となり、1989年に民衆の暴動で失脚し、処刑されました。
チェコスロヴァキア
チェコスロヴァキアでは、1968年に「プラハの春」と呼ばれる民主化運動が発生。ドプチェク政権が成立しましたが、ソ連の軍事介入により鎮圧されました。
ギリシア
ギリシアでは戦後に王政が復活し、その後の軍部クーデタが起こって軍部独裁政権が発足しました。しかし、その後新憲法が採択され、1970年代に民主制が復活しました。
ケネディ
アメリカでは、アイゼンハワーのあとケネディが1961年に大統領に就任しました。
未解決の問題を未開拓地(フロンティア)になぞらえた「ニューフロンティア」と呼び、問題に対処するニューフロンティア政策を実施しました。
キューバ危機
アメリカ合衆国のすぐ南のキューバでは、1959年にキューバ革命が起き、新しく指導者になったカストロはキューバの社会主義化を宣言し、ソ連に接近しました。
1962年10月、アメリカ空軍の偵察機がキューバで建設中のミサイル基地を見つけました。
ミサイル基地はソ連のものでした。ケネディ大統領は、カリブ海の海上封鎖を行い、ソ連の基地建設を妨害しました。
このため米ソが戦争になる危険性が一気に高まりました。この一連の出来事をキューバ危機といいます。
最終的にはソ連の指導者フルシチョフが譲歩し、ミサイル基地を撤去しました。
部分的核実験禁止条約(PTBT)
核戦争の危機に直面したキューバ危機の翌年、米・英・ソの3国は核実験を制限する部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結しました。
この条約によって大気圏内・宇宙空間や水中での核兵器実験が禁止されましたが、地下実験は禁止されませんでした。
黒人解放運動(公民権運動)
黒人は法的には平等でしたが、実際には黒人差別が根強く残っていました。そこでキング牧師を中心に、非暴力で黒人の差別撤廃を求める公民権運動が行われました。
ケネディは公民権運動の高まりをうけ、黒人差別をなくす法律を作ろうとしました。しかしケネディは任期途中の1963年11月に南部で暗殺されてしまいました。
ジョンソン~ニクソン
公民権法
ケネディ暗殺後、副大統領だったジョンソンが第36代大統領に就任。彼は差別や貧困の解消をうたった「偉大な社会」計画を打ち出しました。
ジョンソンは1964年に公民権法を制定して人種差別を禁止しました。
北爆(ベトナム戦争への介入)
また、ジョンソン大統領は1965年からベトナム戦争への介入を行いました。南北に分断されたベトナムのうち、資本主義の南ベトナムを軍事支援し、1965年に社会主義の北ベトナムへの爆撃(北爆)を行ったのです。
アメリカは北ベトナムに味方する南ベトナム解放民族戦線という組織が各地で展開したゲリラ戦術に悩まされました。
ベトナム反戦運動
ベトナム戦争は長期化し、戦費はアメリカの財政を圧迫しました。また、米兵がベトナム市民に銃を向ける様子が報道されてベトナム反戦運動が国内外で起きました。
ベトナム(パリ)和平協定
アメリカではジョンソンに代わって、ベトナムとの和平をめざすニクソンが1969年に大統領になりました。彼は1972年に中国を訪問し、中華人民共和国を事実上認めました。北ベトナムと同じ社会主義国である中国を味方に付け、ベトナムとの停戦交渉を優位に進めようとしました。
そして1973年、ベトナム(パリ)和平協定が締結され、米軍はベトナムから撤退しました。
米軍撤退後、南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナム軍に攻略されたことで、南ベトナムは降伏。ベトナム戦争は終結しました。
ニクソンショック(ドルショック/ドル危機)
ベトナム戦争で莫大なお金を使ったアメリカは深刻な経済危機におちいりました。アメリカの経済を守るため、1971年にニクソン大統領は金とドルの交換停止を発表しました。これをニクソンショック(ドルショック/ドル危機)といいます。
ニクソンショック(ドルショック/ドル危機)の影響で、為替制度はドルを中心とする固定相場制から変動相場制に変わりました。こうして第二次世界大戦後につくられた国際経済体制であるブレトンウッズ体制は崩壊しました。
サミット(先進国首脳会議)
1973年、第4次中東戦争の影響で第1次石油危機(オイル=ショック)が発生し、世界各国が経済危機におちいりました。
この年、欧米諸国はサミット(先進国首脳会議)を開き、経済問題の対策を話し合いました。サミットはこれ以降、毎年開催されることになりました。
ウォーターゲート事件
1974年、ライバルである民主党の事務所を盗聴したことが発覚し(ウォーターゲート事件)、ニクソンは任期途中でアメリカ大統領を辞任しました。
ブレジネフ
時はアメリカの北爆の前の1964年に戻ります。
この年、ソ連ではフルシチョフが解任されました。新たに書記長となったブレジネフはアメリカと協調して軍縮に取り組みました。
核拡散防止条約(NPT)
1968年に核拡散防止条約(NPT)という国際条約が成立しました。
条約の成立前までに核兵器を持っていたアメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国以外の核兵器の保有を禁止しました。
ただ実際には、条約に加盟していない国や脱退した国が核兵器を保有しているという問題があります。
戦略兵器制限交渉(SALT)
西ドイツ首相のブラントは、東ドイツやソ連など社会主義諸国との和解を目指す東方外交をしました。この東方外交がきっかけとなって、1970年代は東西(米ソ)冷戦の関係が軟化しました。これをデタント(緊張緩和)といいます。
そしてさらに軍縮がすすみ、米ソ間で第1次戦略兵器制限交渉(SALT1)、第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)が行われました。SALTはソルトと読みます。
戦略兵器制限交渉(SALT)はアメリカとソ連の間で、お互いの国の戦略兵器の数の上限を決める話し合いです。
戦略兵器とは、はっきりいうのは難しいのですが「よく飛んで、相手国の重要施設(政府とか)を攻撃できるミサイル」「核弾頭をつけられるミサイル」などです。
1回目(SALT1)はお互いが内容に納得し調印して条約になりましたが、2回目(SALT2)は後で言うように中止になります。
アフガニスタンへの軍事介入
軍縮を進めるソ連でしたが、1979年にアフガニスタンへ軍事介入を行いました。
同国で誕生した社会主義政権を支援するためです。
この行動にアメリカは怒り、第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)は中止。
他にもアメリカは、アフガニスタンの反政権側に武器を提供しました。こうしてアフガニスタンは内戦状態となりました。
ソ連のアフガニスタン侵攻によってふたたび再燃した米ソの対立を「新冷戦(第2次冷戦)」といいます。
ソ連はゴルバチョフ政権の時代になってからアフガニスタンからの撤退を決定し、1989年までに完了させました。
カーター
1977年に就任したカーター大統領は米中国交の正常化を達成しましたが、任期中にソ連がアフガニスタンに侵攻したことで米ソの関係は悪化しました。
また、1979年にはイラン革命の影響で第2次石油危機が発生しました。カーターはこれに有効な対策ができず、1期のみで大統領を退任しました。
今回はここまでです。
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