第二次世界大戦後の世界史

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規模が大きめな世界史(おもに近現代)

一般に第二次世界大戦は、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻に始まり、1945年8月15日の日本の敗北までとされます。

  • ドイツ・イタリア・日本を中心とした枢軸国
  • イギリス・フランス・中国、途中から参戦したソ連・アメリカ合衆国を加えた連合国(最終的には50か国以上)

の2つの陣営に分かれ、8年に及ぶ戦争となりました。

今回は終戦後の世界の歴史について説明します。

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第二次世界大戦の敗戦国の処遇

ドイツ

裁判官
裁判官

敗戦国ドイツのナチ党の幹部たちはニュルンベルク裁判と呼ばれる国際軍事裁判で裁かれました。

戦後のドイツは米・英・仏・ソの4カ国で分割占領されることになりました。米・英・仏が西側を、ソ連が東側を占領しました。

ドイツの分割管理
ドイツの分割管理

そして、ドイツの東側にあった首都ベルリンも東西に分割管理されました。

ベルリンの中の西側だけが米・英・仏の管轄となり、道路が建設されて西側管理地区とつながれました。

オーストリア

オーストリアも、戦後はドイツと同じく4カ国により分割管理されることになりました。

終戦から10年経った1955年、連合国とオーストリアの間で結ばれたオーストリア国家条約でオーストリアは主権を回復し、独立を果たしました。

ただしオーストリアは永世中立国となることが定められました。

永世中立国とは、戦争や軍事同盟に参加せず中立を守ることを義務付けられた国です。

パリ講和条約

第二次世界大戦でドイツ側についたイタリア・ルーマニア・ブルガリア・ハンガリー・フィンランドは、パリ講和条約で戦後処理の内容がきめられました。

具体的には、各国の領土や軍備の縮小や賠償金支払いなどが規定されました。

日本

東京では東京裁判(極東国際軍事裁判)と呼ばれる軍事裁判が開かれました。

1951年9月、日本と連合国51カ国が集まりサンフランシスコ講和会議が開かれました。この会議の結果サンフランシスコ平和(講和)条約が結ばれ、日本は主権の回復を認められました。

国際連合

輪になる人

国際連合については、第二次世界大戦中から話しあわれていました。

1941年8月、米・英による大西洋上会談で戦後のことについて話し合い、「大西洋憲章」が発表されました。

1944年8月には、米・英・ソ・中の代表によるダンバートン=オークス会議で、「大西洋憲章」をもとに、国際連合について定めた「国際連合憲章」の原案が作られました。

1945年2月には、米・英・ソの首脳によるヤルタ会談で、連合国による戦後処理が話し合われたり、安全保障理事会の常任理事国に拒否権を認めることが合意されました。

そして1945年4月、連合国50カ国が参加したサンフランシスコ会議国際連合憲章が採択され、国際連合が誕生しました。国際連合の本部はアメリカのニューヨークにあります。

サンフランシスコ会議と、日本と連合国の講和会議であるサンフランシスコ講和会議は、名前は似ているけど別物です。

国際連合にはいくつかの主要機関があります。

総会は、すべての国連加盟国が1票を持ち、多数決で物事を決めます。

安全保障理事会(略して「安保理」)は、米・英・仏・ソ・中の常任理事国と、定期的にメンバーが入れ替わる非常任理事国とで構成されます。常任理事国には拒否権があり、安保理で何かを決めるときは、五カ国の全員一致が原則です。

国際連合は、経済社会理事会国際労働機関(ILO)国際司法裁判所ユネスコ世界保健機関(WHO)などなど、多くの付属機関をもっています。

世界人権宣言

第二次世界大戦では、他者を傷つけたり迫害するなどの人権侵害が多く行われました。また、人権侵害が戦争につながったともいえます。

戦争を防ぐためには、人権を守ることが大切だと考えられ、1948年の国連総会で「世界人権宣言」が採択されました。

世界人権宣言は、すべての人間が生まれながらに基本的人権を持っていることを、 初めて公式に認めた宣言です。この宣言じたいに法的拘束力はありませんが、宣言に基づいて、人権侵害を具体的に禁止する条約が多くできました。

ブレトン=ウッズ国際経済体制

お金
お金

第二次世界大戦の反省をふまえ、戦後、アメリカを中心とした新たな経済体制であるブレトン=ウッズ国際経済体制が構築されました。

国際復興開発銀行(IBRD)と国際通貨基金(IMF)

大戦中の1944年7月、アメリカで

  • 貧しい国にお金を貸し、復興や発展を支援する国際復興開発銀行(IBRD)
  • 為替相場の安定を図ったり、金融危機に陥った国へ経済的な援助を行う国際通貨基金(IMF)

の設立が決定されました。

固定為替相場制

また、アメリカの通貨ドルを基軸とした固定為替相場制が導入されました。ドルと他国の通貨との交換比率は一定に保ち、経済を安定させようとしました。例えば日本円は1ドル=360円と定められました。

この体制は1973年まで続きました。

ガット(GATT・関税および貿易に関する一般協定)

1948年、ガット(GATT・関税および貿易に関する一般協定)と呼ばれる国際協定が発効されました。

戦前のブロック経済が第二次世界大戦の一因になったことを反省し、関税やその他貿易の障害になることを減らし、貿易を自由に行うことが目指されました。

1995年にはGATTに代わって世界貿易機関(WTO)が発足しました。

GATTは協定ですが世界貿易機関(WTO)は国連の常設機関です。

また、GATTは物品だけを対象としていましたが、世界貿易機関(WTO)は知的財産やサービスなども対象になります。

第三勢力

第二次世界大戦後、アメリカ・ソ連の二つの大国がグループを作って対立した「冷戦」がはじまりました。そんな中、アメリカ側にもソ連側にも属さない「第三勢力」と呼ばれる国々が、結束を強めていきます。

その中心となったのは、アジア・アフリカ・ラテンアメリカ諸国でした。

1954年、中国の周恩来とインドのネルー首相がインドでネルー・周恩来会談を行い、平和五原則が発表されました。

1955年には、インドネシアのスカルノ大統領の呼びかけで史上初のアジア・アフリカ首脳会議であるアジア=アフリカ会議バンドン会議)が開かれました。ここで、平和五原則をもとにした平和十原則が発表されました。

1961年には、ユーゴスラヴィアのベオグラードで、米ソどちらにも味方しない「非同盟国」による第1回非同盟諸国首脳会議が開かれました。ユーゴスラヴィアのティトー、エジプトのナセル、インドのネルーが提唱者です。

核兵器

核保有国

第二次世界大戦中の1942年、アメリカは原子爆弾を開発する「マンハッタン計画」を始めました。1945年、アメリカは世界で初めて核実験に成功し、広島・長崎に原子爆弾(原爆)を投下しました。

1949年、アメリカに続いてソ連が核実験に成功。世界で二番目の核保有国となりました。

アメリカはより強い核兵器を求めて、1952年に原爆を上回る破壊力を持つ水素爆弾を開発しました。

1952年以降、アメリカ・ソ連に続いてイギリス・フランス・中国も核実験に成功し、核保有国となりました。

その後1974年にはインドが、1998年にはパキスタンが核実験に成功。北朝鮮も核保有を宣言しています。

核兵器への反対運動(反核運動)

1954年、アメリカが太平洋のビキニ環礁でビキニ水爆実験を行いました。

このとき、周辺住民や日本の漁船第五福竜丸の乗組員が被ばくしました。

この第五福竜丸事件をきっかけに原水爆禁止運動が始まり、1955年以降、原水爆禁止世界大会が開かれています。

また、1957年に科学者たちが核廃絶について話し合う第1回パグウォッシュ会議がカナダで開催されました。

兵器削減の動き

部分的核実験禁止条約(PTBT)

兵器削減
兵器削減

核戦争の危機に直面したキューバ危機の翌年の1963年、米・英・ソの3国は核実験を制限する部分的核実験禁止条約(PTBT)を締結しました。

この条約によって大気圏内・宇宙空間や水中での核兵器実験が禁止されましたが、地下実験は禁止されませんでした。

核拡散防止条約(NPT)

1968年に核拡散防止条約(NPT)という国際条約が成立しました。

これは核兵器の保有を禁止したものです。

ただ、条約の成立前までに核兵器を持っていたアメリカ・ソ連・イギリス・フランス・中国は保有OKです。

さらに、条約に加盟していない国や脱退した国の核兵器保有を止められない、という問題があります。

戦略兵器制限交渉(SALT)

1969年以降、米ソ間で第1次戦略兵器制限交渉(SALT1)、第2次戦略兵器制限交渉(SALT2)が行われました。SALTはソルトと読みます。

これはアメリカとソ連、お互いの国の戦略兵器の数の上限を決める話し合いです。

戦略兵器とは、はっきりいうのは難しいのですが「よく飛んで、相手国の重要施設(政府とか)を攻撃できるミサイル」「核弾頭をつけられるミサイル」などです。

1回目(SALT1)はお互いが内容に納得し調印して条約になりましたが、2回目(SALT2)はソ連のアフガニスタン侵攻にアメリカが怒ったため、中止になりました。

そのあと米ソの関係は少し良くなり、1987年に米ソの間で中距離核戦力(INF)全廃条約を調印。

冷戦の後の1991年、アメリカとソ連はSALTの続きにあたる第1次戦略兵器削減条約(STARTⅠ)を結びました。

これまでの、兵器を「制限」する条約とは異なり、STARTⅠは兵器の「削減」を取り決めた条約です。

包括的核実験禁止条約(CTBT)

1996年、あらゆる核実験を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連総会で採択されました。

アメリカのクリントン大統領はこの条約に賛成でしたが、議会の上院が反対しました。アメリカや他の国が批准(条約に同意すること)していないため、いまも国際法として発効していません。

ヨーロッパ共同体(EC)

同盟
共同体

第二次世界大戦後、フランス外務大臣のシューマンは、「ドイツとフランスの対立の原因になっていた石炭・鉄鋼を国際的な組織の管理下において、共同管理しよう」と提案しました。これを「シューマン=プラン」といいます。

ドイツとフランスは鉄・石炭の有数な産地であるアルザス・ロレーヌ・ルールなどの町をとりあっていた過去があります。

シューマン=プランに同意したフランス・西ドイツ・イタリア・ベネルクス3国(ベルギー・オランダ・ルクセンブルク)の計6カ国は、1952年に石炭・鉄鋼の生産を共同管理するヨーロッパ石炭鉄鋼共同体(ECSC)を発足。

これがヨーロッパ統合の第一歩となりました。

さらに、この6カ国はヨーロッパ原子力共同体(EURATOM)、そしてヨーロッパ経済共同体(EEC)を結成。

1967年には、これら3つの組織(ECSC,EURATOM,EEC)が統合されてヨーロッパ共同体(EC)が成立しました。

イギリスは、ヨーロッパ経済共同体(EEC)に対抗してヨーロッパ自由貿易連合(EFTA・エフタ)という組織をつくりましたが、多くの国がECのほうに加盟することになりました。

現在もヨーロッパ自由貿易連合(EFTA・エフタ)はありますが、4か国しか加盟しておらず、いいだしっぺのイギリスも脱退しています。

EU(ヨーロッパ連合)

EC(ヨーロッパ共同体)は、1970年代にはイギリス・アイルランド・デンマークが、80年代にはギリシア・スペイン・ポルトガルがECへ加入。こうして加盟国が増えたECは拡大ECと呼ばれるようになりました。

1993年にはマーストリヒト条約に基づいて、ECにかわってEU(ヨーロッパ連合)が発足しました。

EU本部はベルギーのブリュッセルに置かれています。

1999年には、加盟国内の統一通貨としてユーロが導入され、EU加盟国のほとんどで使われています。

国連平和維持活動(PKO)・非政府組織(NGO)

2000年代の国際社会では国連平和維持活動(PKO)や非政府組織(NGO)の活動がさかんになりました。

国連平和維持活動(PKO)とは、紛争の平和的な解決のため、関係国の同意などに基づいて小規模な軍隊や監視団を派遣する活動です。

非政府組織(NGO)とは、営利を目的としない民間団体です。環境・貧困・などの問題解決に取り組む世界規模の組織もあります。

おわりに

今回はここまでです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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