高校世界史の範囲を中心にした第一次世界大戦について解説していきます。
第一次世界大戦は、1914年から1918年までの長きにわたり、計20か国以上が参戦した、ヨーロッパが主戦場となった大きな戦争です。
三国同盟と三国協商
![同盟](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/肩を組む人たちのイラスト(棒人間).png)
第一次世界大戦の戦前にあたる、20世紀はじめのヨーロッパ列強(有力な大国)は
- ドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟
- フランス・イギリス・ロシアの三国協商
の二大勢力に分かれていました。
各国は、この対立関係をもとに第一次世界大戦へ突入していきます。
三国同盟は、ドイツ帝国のビスマルクが1882年に結成したものです。
つぎは三国協商について説明します。
再保障条約の白紙と露仏同盟
ドイツ帝国の皇帝ヴィルヘルム2世は、再保障条約の更新を拒否しました。これでドイツとロシアの仲は悪くなりました。
再保障条約というのは、かつてビスマルクが他国にないしょでコッソリ結んでいた、ロシアとドイツの仲良し条約です。
その後ロシアとフランスが仲良くなり、19世紀末に露仏同盟を結成しました。
イギリスの同盟と三国協商の完成
イギリスはかつて世界最大の工業国でしたが、このころはアメリカやドイツに抜かれ「光栄ある孤立」を保つ余裕がなくなってきました。
アメリカやドイツは19世紀後半に起きた第二次産業革命の中心となりました。
第二次産業革命とは、重化学工業を中心とした産業の変革や発展です。重化学工業というのは金属・機械・造船などの重工業と、石油・薬品・ゴムなどの化学工業をまとめた言い方です。いっぽう、軽工業とは食品・繊維・紙や木材製品などの製造業をさします。
イギリスはロシアのアジア進出を警戒して、1902年に日英同盟を結びました。
これでイギリスの「光栄ある孤立」状態はなくなりました。
それを見て「あ、今のイギリスって頼んだら同盟くんでくれるんだ」と思ったフランスは、1904年にイギリスと英仏協商を結成しました。
日露戦争後の1907年には、ドイツのバルカン半島進出を警戒するロシアとイギリスとの間で英露協商が結成されました。
![通りすがりの人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/唖然としている人-150x150.png)
イギリスさん、ロシアを警戒して日英同盟を結んだのに、結局ロシアと同盟くんだんだ…
こうして露仏同盟・英仏協商・英露協商によってイギリス・フランス・ロシアの3国が協力関係になりました。この関係を三国協商といいます。
イギリス・フランス・ロシアの三国協商は、ビスマルクが作ったドイツ・オーストリア・イタリアの三国同盟と対立します。この対立はやがて 第一次世界大戦 へと発展します。
ヨーロッパの火薬庫
![対立](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/対立_s.png)
第一次世界大戦にはヨーロッパのバルカン半島でのゴタゴタも大きく関係しています。
そのへんも説明していきます。
20世紀初頭、バルカン半島は
- オーストリア・ドイツのパン=ゲルマン主義勢力と
- ロシアやセルビアなどのパン=スラヴ主義勢力
がにらみあう場所となっていて、「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれました。
パン=ゲルマン主義はゲルマン人が、 パン=スラヴ主義はスラヴ人が団結して大きな国をつくることを目指す思想です。
ボスニア・ヘルツェゴヴィナの併合
![領土の奪い合い](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/陣地を奪い合う棒人間のイラスト.png)
バルカン半島で起きたのはパン=スラヴ主義とパン=ゲルマン主義の対立だけではありません。
1908年、オスマン帝国で青年トルコ革命が起きたスキをねらって
- オスマン帝国領のブルガリアは独立を宣言
- オーストリアはオスマン帝国領となっていたバルカン半島のボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合
しました。
ボスニアには多数のセルビア人が住んでいたため、 セルビアはオーストリアに対して強い反感をもちました。これがのちにサラエボ事件(サライェヴォ事件)を引き起こします。
バルカン戦争
セルビアは、ロシアの支援を受けてブルガリア・モンテネグロ・ギリシアとバルカン同盟を結成しました。バルカン同盟は1912年に、オスマン帝国に第1次バルカン戦争を仕掛けました。
勝利したバルカン同盟はオスマン帝国から領土を獲得しましたが、その領土の分配をめぐり仲間割れを起こし、1913年に第2次バルカン戦争が起きました。
ブルガリアが、セルビア・モンテネグロ・ギリシアと戦いましたが、セルビア側にオスマン帝国やルーマニアが味方したこともあり、ブルガリアは敗北しました。
2度のバルカン戦争で敗れたオスマン帝国とブルガリアは、セルビアや、セルビアのバックにいるロシアに反発し、この後ドイツ・オーストリアと仲良くするようになりました。
サラエボ事件(サライェヴォ事件)
![銃撃](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/銃撃.png)
オーストリアは多数のセルビア人が住んでいたボスニア・ヘルツェゴヴィナを併合したため、セルビアの反感をかっていました。
そんな背景もあり、1914年6月、オーストリアの帝位継承者夫妻がボスニアの州都サラエボ(サライェヴォ)を訪れたさい、セルビアの青年に殺されてしまいました。 これをサラエボ事件(サライェヴォ事件)といいます。
翌月、 オーストリアはセルビアに宣戦布告しました。
第一次世界大戦の始まり
セルビアと同じスラヴ人国家であるロシアがセルビアに加勢しました。
いっぽう、オーストリア側にはドイツが参戦しました。
さらに三国同盟と三国協商の国が次々に参戦し、ロシア・イギリス・フランスの協商国(=連合国)側と、ドイツ・オーストリアの同盟国側とに分かれて戦うことになりました。
(イタリアは同盟国側ですが、同盟をぬけて協商国側で参戦しました。)
この他、最終的には日本、アメリカなどの約20か国が協商国側で参戦し、同盟国側には、オスマン帝国やブルガリアが参加しました。
戦争のきっかけとなったセルビアは当然、協商国(=連合国)側です。ただ、この後はあまり存在感がありません。
セルビア軍は敗戦がつづき、セルビア政府はギリシアのコルフ島に逃げました。
しんどいセルビアは第一次世界大戦後の1918年に近隣のクロアティア・スロヴェニアと合併して新しい国をつくりました。この国は1929年にユーゴスラヴィア王国と改名します。
第二次世界大戦後まで、このあたりは合併と分裂をくりかえしました。
ドイツの動き
![西部戦線と東部戦線](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/西部戦線と東部戦線.png)
ドイツではまず西側の西部戦線のほうでフランスを倒し、そのあと東側の東部戦線に軍隊を回してロシアを倒す、という作戦が立てられました。
西部戦線
ドイツは中立国のベルギーを通ってフランスへ攻めこみました。
イギリスは中立国ベルギーへの侵入を口実にドイツに宣戦布告し、参戦しました。
ドイツ軍はマルヌの戦いでフランス軍に負けます。さらにイギリスの参戦によって、早期に西部戦線で勝つ、という計画が狂ってしまいました。
東部戦線
また、東部戦線では、ロシアがドイツ領に侵攻してきて、マルヌの戦いよりも先にタンネンベルクの戦いが起きてしまいました。
タンネンベルクの戦いはドイツが勝利しましたが、その後の戦いでドイツはロシア軍に敗れました。
ルシタニア号事件
ドイツは無制限潜水艦作戦を行いました。ドイツが決めた水路以外をゆく船はすべて潜水艦で攻撃する、という作戦です。
ドイツの潜水艦攻撃でイギリスの客船が沈み、乗客のアメリカ人が犠牲になりました。これをきっかけに、1917年にアメリカが協商国側で参戦しました。
こうしてドイツはイギリスやアメリカの参戦のきっかけをつくってしまいました。
近代兵器による戦い
第一次世界大戦では潜水艦・航空機・戦車・毒ガス・機関銃が戦争に使われました。
機関銃での銃撃戦が増えたことで、軍隊が堀をほって撃ちあう塹壕戦という戦いが増え、戦争は長びきました。
総力戦
第一次世界大戦は各国の予想以上に長びき、国内のお金、人、モノをすべて戦争につぎこむ総力戦となりました。
このため第一次世界大戦中には女性もさかんに工場で働くようになりました。
これは戦後の女性の参政権獲得につながりました。
日本の動き
![旧日本兵](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/旧日本兵.png)
1914年8月、日英同盟を口実に、第一次世界大戦に日本がイギリス側(協商国側)で参戦しました。
日本は、イギリスの敵であるドイツが持っていた南洋諸島、膠州湾や青島を占領しました。
また、日本の大隈重信内閣は、中華民国に二十一カ条の要求を出し、大部分を認めさせて中国での利権を拡大しました。
![斜に構える人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/09/斜に構える人-300x345.png)
中国に攻め込んだだけじゃん
イタリアの動き
協商国側のイギリス・フランスがイタリアに、「未回収のイタリア」の一部をあげるから味方をしてよ、ともちかけました。
ドイツ・オーストリアと三国同盟を結んでいたイタリアですが、1915年、同盟国側に三国同盟離脱を宣言して、協商国側で参戦しました。
![ドイツ](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/凄い怒る人-150x150.png)
イタリアが裏切った!
イギリスの動き
![メガネが光る人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/メガネが光る人のイラスト(男性).png)
第一次世界大戦中のイギリスは、戦争を有利に進めるために3つの秘密条約を締結しました。
- 1915年、オスマン帝国に支配されていたアラブ人に協力してもらうため、アラブ人国家独立を約束したフサイン=マクマホン協定
- 1916年、アラブ地域を含むオスマン帝国領を英・仏・ロで分割して支配しよう、また、当時オスマン帝国領のパレスチナは国際管理地域にしよう、と決めたサイクス・ピコ協定
- 1917年、ユダヤ人に協力してもらうため、パレスチナにユダヤ人国家をつくることを認めたバルフォア宣言
![考える人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/肩をすくめる白人男性-150x150.png)
え?オスマン帝国領やパレスチナは結局だれのものになるの?
イギリスの秘密条約は3つすべてをかなえるのは不可能なものであり、アラブ人とユダヤ人の対立を生み、現代まで続く中東問題の原因になりました。
さらにイギリスは、インドにも協力してもらうため、戦後自治権をあたえる約束をしてたくさんの義勇軍をだしてもらいましたが、戦後はインド統治法でわずかの自治しか与えず、さらにローラット法で締めつけを強化しました。
フセイン・マクマホン協定の反故
1916年、フセイン・マクマホン協定を結んだメッカの首長フセインがアラビア半島にヒジャーズ王国を建国しました。
しかしイギリスはフセインを裏切り、イブン=サウードという人にヒジャーズ王国を征服させました。その後、イブン=サウードはアラビア半島の大部分を統一してサウジアラビア王国を建国しました。
第一次世界大戦の終結
1917年にアメリカが参戦し、当時のアメリカ大統領ウッドロー=ウィルソンは、第一次世界大戦の講和のための原則として十四カ条を発表しました。
アメリカが参戦した後、ロシアは第二次ロシア革命(二月革命など)のため、ドイツなどの同盟国とブレスト=リトフスク条約という単独講和条約を結び、戦争からいち抜けしました。
アメリカの参戦で協商国側は有利になり、1918年の秋にはブルガリア、オスマン帝国、オーストリアが降伏しました。
ドイツ革命
![反戦](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/反戦_s.png)
残されたドイツでは、国内でドイツ革命が起きました。
戦争中止を求めた水兵たちがキール軍港で反乱を起こした後、兵士や労働者の代表者が集まるレーテ(評議会)がつくられ、革命をすすめ、ドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が亡命しました。
君主がいなくなったことでドイツ帝国は崩壊し、ドイツ共和国となりました。
共和国の臨時政府は協商国とドイツ休戦協定を結び、第一次世界大戦は終結しました。
おわりに
ロシア・イギリス・フランスの協商国(=連合国) 側と、ドイツ・オーストリアの 同盟国側とに分かれて第一次世界大戦が始まりました。
戦争に負けたドイツは領土削減や軍備制限や莫大な賠償金など厳しい制裁を受けました。
また平和を願う風潮が広がり、国際連盟が誕生し、軍縮や戦争防止の条約が結ばれました。
次回は第一次世界大戦後の世界についてです。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/after-ww1-160x90.jpg)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。