高校世界史の範囲を中心にした東南アジアの歴史について数回に分けて解説していきます。
今回は1回目です。もともと東南アジアにあった国と、ヨーロッパによる植民地化のようすについて、なるべくわかりやすく、簡単に説明します。
![東南アジア地図](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/東南アジア地図_s.png)
ミャンマー(ビルマ)
インドの隣のイラワディ川(エーヤワディー川)流域のミャンマーには、順番に
- ビルマ人による最初の統一王朝であるパガン朝(1044~1299)
- タウングー(トゥングー)朝(1531~1752)
- コンバウン朝(1752~1885)
という王朝がありました。
ビルマ人による最初の統一王朝であるパガン朝(1044~1299)には、スリランカから上座部仏教が伝わりました。これをきっかけに、東南アジア各地に仏教が広がりました。
最後の王朝であるコンバウン朝(1752~1885)はタイのアユタヤ朝を滅ぼして大国になりました。しかしイギリスとの3度にわたるビルマ(ミャンマー)戦争で滅ぼされ、1886年にインド帝国に併合されました。これをビルマ併合といいます。
タイ
チャオプラヤ川流域のタイは3つの王朝が栄えます。順番に
- タイ人による最初の王朝であるスコータイ朝(13~15世紀)
- スコータイ朝を吸収したアユタヤ朝
- 現在も続くラタナコーシン朝(1782~)
です。
アユタヤ朝(1351~1767)の時代、タイには江戸幕府の鎖国により帰れなくなった日本人がつくった日本町(日本人町)があり、17世紀に山田長政という人が活躍しました。アユタヤ朝はビルマのタウングー(トゥングー)朝に滅ぼされました。
その後、再びタイ人による王朝のラタナコーシン朝がつくられました。5代目の王ラーマ5世は近代化に努め、タイはヨーロッパの支配をまぬがれて独立を保ちました。
1932年にタイ立憲革命というクーデターが起き、ラタナコーシン朝は王政から立憲君主制になりました。1939年には国号がシャムからタイに変わりました。
カンボジア
メコン川流域で栄えたカンボジアには扶南、真臘(しんろう)という国がありました。どちらも、中国の歴史書での呼び名です。
扶南(1世紀~7世紀半ごろ)は交易で栄えましたが、真臘によって滅びました。
真臘
真臘(6~15世紀)はアンコール朝のときに全盛期を迎えました。
アンコール朝には
- 王都の遺跡であるアンコール=トム
- ヒンドゥー教寺院としてつくられ、のちに仏教寺院になったアンコール=ワット
という2つの有名な遺跡があります。
14世紀ごろからタイのアユタヤ朝の攻撃を受け、衰退しました。
1863年、カンボジアはフランスの保護国になります。
1887年、ベトナムやカンボジアを合わせたフランス領インドシナ連邦がつくられました。
ベトナム
ベトナムはインドシナ半島にあり、カンボジアの東側の海ぞいにあります。
紀元前4世紀ごろから古代ベトナムに栄えた文化をドンソン文化といい、青銅器だけではなく鉄器も使用されていました。ドンソン文化を代表する出土品で、銅鼓という青銅器の太鼓があります。
紀元前111年には、前漢の武帝は中国南部からベトナム北部にあった南越という国を征服し、日南郡を設置しました。
その後、ベトナムは北と南で別々の国が栄えました。
ベトナム南部のチャンパー
ベトナム南部には、2世紀末から17世紀頃まで1000年以上つづいたチャンパーという王国がありました。後漢から唐の時代には「林邑」、その後は「占城」という名前で呼ばれました。
チャンパーを作ったチャム人は船を使うのが得意な海洋民族で、海上貿易で栄えていました。
北ベトナムの黎朝(れいちょう)に吸収されて、南北ベトナムは統一されました。
ベトナム北部の大越国
11世紀から19世紀のはじめまで、ベトナム北部には主に李朝→陳朝→黎朝→西山政権の4つの王朝が成立しました。これらの王朝をまとめて大越国と呼びます。
最初の李朝(11~13世紀)は北部ベトナムで最初の長期王朝です。1075年に宋の神宗が攻めてきましたが、撃退しました。
![字](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/習字のイラスト(墨筆).png)
李朝のあとに成立した陳朝(13~14世紀))の時代には、字喃(チュノム)と呼ばれる文字が作成されました。漢字をもとにしてつくられた文字で、現在のベトナムでも使われています。
13世紀にはモンゴルが3回攻めてきましたが、撃退しました。
1406年、明の永楽帝に征服され、中国の支配下になりました。
黎朝(れいちょう)(15~18世紀)は明から独立してできた国です。
南ベトナムのチャンパーを吸収して、南北ベトナムを統一しました。
黎朝は西山の乱という反乱で滅び、西山政権が成立しました。
阮朝・越南国
1802年、阮福暎(げんふくえい)という人がフランスの支援を受けて西山政権を倒し、阮朝(げんちょう)を建国しました。阮朝は、これまでのベトナム王朝と同じく中国の「弟分」のような存在の清の朝貢国となり、清からは越南国(えつなんこく)と呼ばれました。
フランス・ナポレオン3世のベトナム支配
皇帝ナポレオン3世率いるフランスは、1856年に始まったアロー戦争で中国に侵攻したあと、1858年にベトナム(阮朝)に侵攻しました。ベトナム側は中国出身の軍人だった劉永福が農民を集めて黒旗軍をつくり、フランスに抵抗しました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/09/second-empire_eyecatch-160x90.png)
1883年、フランスはベトナムを保護国としました。
保護国とは、いちおう独立しているものの、外交権や財政、軍事権などの国の主権を他国に取られて支配されている状態の国のことです。
フランス領インドシナ連邦
フランスは1863年、ベトナムより先に隣のカンボジアを保護国化していました。
1887年、ベトナムやカンボジアを合わせてフランス領インドシナ連邦が成立しました。
1889年にはラオスもここに編入されました。
(現在のベトナム・カンボジア・ラオスといった地域をインドシナ半島と呼びます。)
ジャワ・スマトラ(インドネシア)
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/インドネシア.png)
マレー半島の西側にあるスマトラ島には
- シュリーヴィジャヤ王国
- イスラーム国家のアチェ王国
マレー半島の南にある横長な島、ジャワ島には
- シャイレンドラ朝
- ヒンドゥー教国家のマジャパヒト王国(1293~1520頃)
- イスラーム国家のマタラム王国
などがありました。
また、ジャワ島にはワヤンと呼ばれる伝統的な影絵芝居があります。インドの古典文学『マハーバーラタ』を題材とするものが多いです。
シュリーヴィジャヤ王国
スマトラ島南部に7世紀に成立した国がシュリーヴィジャヤ王国です。
シュリーヴィジャヤ王国には、『南海寄帰内法伝』を書いた中国僧の義浄が、インドからの帰りに立ち寄りました。
アチェ王国
スマトラ島北部に成立したイスラーム国家のアチェ王国(15世紀末~1912)は、香辛料の輸出で繁栄しました。1873年にはアチェ王国とオランダの間でアチェ戦争が勃発しました。オランダはこの戦争に勝利したあと、現在のインドネシアにあたる地域をオランダ領東インドという植民地にしました。
シャイレンドラ朝
ジャワ島のシャイレンドラ朝(8~9世紀半)は、大乗仏教の石造寺院であるボロブドゥールを作りました。カンボジアのアンコール=ワットと並ぶ、東南アジアの重要な遺跡で、世界遺産に登録されています。
マジャパヒト王国とマタラム王国
ジャワ島の東部にはヒンドゥー教国家のマジャパヒト王国(1293~1520頃)がありましたが、16世紀、マタラム王国というイスラーム国家に滅ぼされました。しかしマタラム王国は17世紀、オランダに実質的に支配されました。
オランダは17世紀初めにジャワ島にバタヴィアという街をつくってオランダ東インド会社の拠点にしました。
8世紀にもマタラム王国という国がありましたが、ヒンドゥー教の別の国です。
区別するために「古マタラム王国」といわれます。
モルッカ諸島
スマトラ島やジャワ島より、もっと東のモルッカ諸島は香辛料が豊富にとれることから香料諸島とも言われました。17世紀以降はオランダが支配しました。
モルッカは島の名前、
マラッカは国の名前です(マラッカ王国)。まぎらわしいですね。
「香辛料もりもり盛る盛る、モルッカ諸島」と覚えましょう。
オランダ領東インド
ジャワ島、スマトラ島などのインドネシア地域は17世紀からオランダが進出し、1799年からオランダ領東インドとして植民地支配を開始し、1949年にインドネシアが独立するまで続きました。
マレー半島
マラッカ王国
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/マラッカ.png)
イスラーム国家のマラッカ(ムラカ)王国(14世紀末頃~1511)はマレー半島とスマトラ島の一部を領土にしていました。ここには中国(明)の鄭和が遠征のさいに立ち寄り、マラッカ海峡をぬけてインドや中東に向かいました。マラッカ(ムラカ)王国は1511年にポルトガルに占領されました。
マラッカ(ムラカ)はマレーシアの都市名でもあります。
マレー連合州
イギリスは、オランダとの協定などでマレー半島のペナン・シンガポール・マラッカを獲得すると、これらの地域を合わせて1826年に海峡植民地という植民地をつくりました。
さらに1895年、海峡植民地に領土を足す形でマレー連合州を成立させました。マレー連合州は現在のマレーシアの母体となっています。
マレー連合州では錫(すず)の産出やゴムのプランテーション栽培が盛んに行われ、錫開発においては中国からの移民である華僑(かきょう)が、ゴムのプランテーションにおいてはインドからの移民である印僑(いんきょう)が労働力となりました。
フィリピン
ホセ=リサールとフィリピン革命
フィリピンは1521年にマゼランが来てから、スペインによる支配を受けていました。
19世紀後半の活動家ホセ=リサールは、スペインの支配を批判する小説を書いたり、組織をつくって独立運動を指導しました。
1896年に、独立運動であるフィリピン革命が始まりました。ホセ=リサールは革命に直接かかわっていませんでしたが、反乱分子としてスペイン軍に処刑されました。
フィリピン革命の指導者アギナルドは一時香港に亡命しました。しかし1898年にアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)が始まると、アギナルドはフィリピンに戻り、アメリカと協力してスペインと戦いました。
アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)中に、アギナルドは独立を宣言し、フィリピン共和国を建国しました。
▼アメリカ=スペイン戦争(米西戦争)について知りたいかたはコチラの記事をどうぞ▼
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/american-civil-war-160x90.jpg)
フィリピン=アメリカ戦争
しかしアギナルドの独立宣言の数か月後、アメリカはアメリカ=スペイン戦争に勝利して、フィリピンの領有権を得ました。
そのためアメリカはフィリピンの独立に反対し、1899年にフィリピン=アメリカ戦争が勃発しました。
フィリピン共和国は敗れ、フィリピンはアメリカの植民地になりました。
おわりに
以上、東南アジアの植民地化について解説しました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
▼この記事のつづきはこちら▼
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/southeast-asia-independence-160x90.jpg)