高校世界史の範囲を中心にした中国と周辺国の歴史について解説するシリーズ記事です。
辛亥革命により清は滅亡し、中華民国が建国されました。
孫文を追い出して中華民国のトップになった袁世凱が、1916年に病死したあと、軍人たちが政権をとりあう、軍閥政権の時代となります。
中国の国民も新文化運動や五・四運動を起こすなか、北京の軍閥政府を倒すために2つの政党が協力します。
第1次国共合作
![握手](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/握手_s.png)
辛亥革命のあと日本に亡命した孫文は1914年に、東京で秘密結社の中華革命党を結成しました。その後孫文は中国に戻り、大衆に門戸をひろげて中国国民党と改称しました。
一方、新文化運動をもりあげ、『新青年』を刊行した陳独秀らは、1921年に中国共産党という社会主義政党を結成しました。
国民党は資本主義、共産党は社会主義の考え方を掲げていました。
1924年、外国勢力を追い出すために、孫文の主導によってこの2つの政党は協力することにしました。これを第1次国共合作といいます。
国民党の孫文は「連ソ・容共・扶助工農」を掲げ、ソ連と連携し、共産党を受け入れ、工業や農業を育てよう、と宣言しました。
五・三〇運動と北伐の開始
1925年、中国国民党のリーダー孫文が病死しました。
同年、上海の日本人が経営する紡績工場でストライキをした中国人労働者が殺される五・三〇事件がありました。この事件をきっかけに中国全土に広がった反帝国主義運動を五・三〇運動といいます。
五・三〇運動を受け、北京にいる軍閥政府を打倒する動き(北伐)が本格化します。
当時の軍閥政府は帝国主義各国と仲良くしていたからです。
中国国民党は北伐のための国民革命軍を結成しました。
同年、中国国民党と中国共産党は広州国民政府を樹立し、北京へ進んでいきました。
1925年の一年間で孫文の死、五・三〇運動、広州国民政府の樹立や国民革命軍の結成などの出来事がありました。
上海クーデタ→国共分裂→国民政府樹立
![銃撃](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/銃撃.png)
1927年、北伐の途中、国民党右派の蒋介石は上海で多くの共産党員を殺害しました。これを上海クーデタといいます。
国民党の中は右派は左派の2つの派閥がありました。
- 蒋介石を指導者としていて、共産党を嫌う「反共的」な国民党右派
- 汪兆銘(おうちょうめい)を指導者としていて、共産党と協力しようと考える「容共的」な国民党左派
の2つの派閥がありました。
共産党を警戒する欧米列強や中国の巨大財閥である浙江財閥(せっこうざいばつ)の意向で蒋介石はクーデタを行いました。また、蒋介石も浙江財閥の一員でした。
上海クーデタにより、国民党と共産党は仲たがいしました。これを国共分裂といいます。
その後、蒋介石ら国民党右派のメンバーは南京国民政府を樹立しました。やがてここに国民党左派も合流し、蒋介石は北伐を再開しました。
張作霖爆殺事件(奉天事件)
当時北京にいた軍閥は奉天派と呼ばれる、日本のいいなりの政権でした。奉天軍閥を倒されたくない日本は山東出兵を行い、北伐を妨害しました。
蒋介石は日本の妨害を振り切り、奉天軍閥の首領張作霖(ちょうさくりん)を破りました。すると日本軍(関東軍)は1928年、逃亡する張作霖が乗った列車を爆破して殺害してしまいました。これを張作霖爆殺事件(奉天事件)といいます。
関東軍とは、当時遼東半島付近に駐留していた日本軍です。
日本はこのあとも1931年に、柳条湖事件からはじまった満州事変や上海事変、1932年の満州国建国、1937年7月、盧溝橋事件からはじまった日中戦争など、中国への侵攻をおこないました。
張作霖爆殺事件の後、息子の張学良が軍閥の実権を握ったあと、蒋介石率いる南京国民政府に降伏しました。
こうして1928年に北伐は完成し、国民政府が中国を統一しました。
中華ソヴィエト共和国臨時政府
そのころの中国共産党は、1927年の国共分裂後、農村部を活動拠点にしていました。
中国共産党の指導者毛沢東は、紅軍と呼ばれる軍隊を率いて勢力を拡大し、1931年に自分を首席とする中華ソヴィエト共和国臨時政府を成立させました。都は瑞金に置かれました。
第一次世界大戦前後の日本
![旧日本兵](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/旧日本兵.png)
大正~第一次世界大戦~第二次世界大戦前くらいまでの日本の歴史を説明します。
大正時代(1912~1926年)には、民主化と自由を求める大正デモクラシーという運動が活発になりました。
1914年8月、日本は日英同盟を口実に、第一次世界大戦にイギリス側(協商国側)で参戦して、イギリスの敵であるドイツが持っていた南洋諸島、膠州湾や青島を占領しました。
また、大隈重信内閣は中華民国に二十一カ条(の)要求を出し、要求の大部分を認めさせて中国での利権を拡大しました。
1918年、ロシアでレーニンのソヴィエト政権がおこると、日本はヨーロッパで共同でシベリア出兵を行いました。
シベリア出兵で米が必要になることを予想した米問屋は、米の売り惜しみをしたり値段を吊り上げました。そのため、米が欲しい民衆が暴動を起こす米騒動が起きました。
第一次世界大戦後、アメリカ主導でワシントン会議が開催されました。
- 日英同盟が解消された四カ国条約
- 中華民国に出した二十一カ条(の)要求が無効になった九カ国条約
- 主力艦(戦艦)の廃棄を求められるワシントン海軍軍備制限条約
の3つの条約が締結され、日本にとっては権益や国力をそがれる内容でした。
1925年には男性普通選挙法が成立して民主化が進みますが、同時に国の制度を否定する人を取りしまる治安維持法が制定されました。
世界恐慌
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/世界恐慌_s.png)
1929年の世界恐慌のあと、欧米諸国が自国と植民地の間だけで貿易をするブロック経済政策をとったため、日本は貿易をしてもらえなくなり、困ったことになりました。
1927年には国内の銀行の倒産があいつぐ金融恐慌が起こりました。
日本では「欧米のように植民地をふやしていくべきだ!」という声が強くなりました。そして日本は、1910年に併合した朝鮮半島を経由して、中国東北部(満州)の占領をめざしました。
満州国の建国
1931年、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破する柳条湖事件が起きました。
日本は「中国の仕業だ」といいはり、中国東北地方(満州)を攻撃しました。
この自作自演から始まる日本と中国の戦闘を満州事変と呼びます。
日本は同じ時期、満州侵略の動きから他国の目をそらすため、上海で日本人が殺害されたことを口実に中国軍を攻撃しました。この事件を上海事変といいます。
1932年、日本は満州を占領し満州国を建国しました。満州国の執政(国家元首)には、清の最後の皇帝であった溥儀(ふぎ)が就任しました。
国際連盟脱退
国際連盟は中国にリットン調査団を派遣し、柳条湖事件をはじめとする、一連の事件を調査し、満州事変は日本の侵略行為であると結論づけました。
日本はこれに反発して国際連盟を脱退し、国際的に孤立していきました。
五・一五事件と二・二六事件
軍部が発言力を増す中、日本では、1932年に、首相の犬養毅が軍部に暗殺されました。これを五・一五事件といいます。
また、1936年には、陸軍の1500人ほどがクーデターを起こして大臣などを殺した二・二六事件が起きました。
こうして、1930年代の日本の政治は軍部に掌握されて、軍国主義化が進んでいきました。
満州国建国~日中戦争のころの中国
![対立](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/対立_s.png)
日本が満州国を建国した1932年ごろ、中国国内では国民党と共産党が激しく対立していました(国共内戦)。
八・一宣言
1933年、国民党の蒋介石は、共産党の本拠地の瑞金を包囲し、攻撃しました。翌年、毛沢東率いる共産党軍は瑞金を放棄し、遠い延安へ大移動を行いました。これを長征といいます。
長征の途中、共産党は八・一宣言を発表し、国民党に「内戦を停止して、協力して日本に対抗しよう」と呼びかけました。
しかし蒋介石は、共産党の呼びかけに耳を貸しませんでした。
幣制改革
1935年、中国の中華民国政府(蔣介石政権)による幣制改革という通貨改革が行われました。通貨を政府系銀行の発行する紙幣(法幣)だけに変更しました。イギリス・アメリカの協力で為替相場も安定し、中国経済は安定しました。
西安事件
1936年、張学良(張作霖爆殺事件の張作霖の息子)が、武力で蒋介石を監禁する事件が起こりました。これを西安事件といいます。
この監禁の結果、蒋介石は「共産党と協力して日本に対抗してほしい」という張学良の主張を受け入れました。
日中戦争
![戦争](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/戦争.png)
1937年7月、北京郊外で日中両軍が衝突した盧溝橋事件をきっかけに日中戦争が始まりました。
盧溝橋の「盧」は、「上・ノ・七・田・皿」で書けます!
同年9月には、第2次国共合作が成立し、国民党と共産党が抗日民族統一戦線を結成しました。
しかし1937年12月に日本軍に南京を占領されました。
南京を占領した日本軍は、市民を含む人々を殺しました。これを南京事件といいます。
日本は占領した南京に南京国民政府を樹立しました。
これは日本の言いなりになる傀儡政府であり、かつて蒋介石と対立した汪兆銘がトップに任命されました。
いっぽう蒋介石は国民政府を南京から重慶に移し、日本への抗戦を続けました。(重慶政府)
日中戦争は、第二次世界大戦で日本が降伏する1945年まで続きました。
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おわりに
今回はここまでです。
おさらいの年表をつくりました。
- 1910年代 新文化運動や文学革命がはじまる
- 1910年 日本の韓国併合
- 1911年 武昌蜂起・外モンゴルが独立を宣言
- 1912年 中華民国を建国・袁世凱が臨時大総統に就任
- 1913年 ダライ=ラマ13世によるチベット独立の布告
- 1914年 日本が第一次世界大戦に参加・中華民国に二十一カ条(の)要求を出す
- 1916年 袁世凱が帝政復活の取り消しを宣言
- 1918年 日本のシベリア出兵・米騒動
- 1919年 中国で五・四運動・ヴェルサイユ条約の調印を拒否
- 1924年 チョイバルサンなどの社会主義者たちがモンゴル人民共和国を建国
- 1925年 孫文の死、五・三〇運動、広州国民政府の樹立、国民革命軍の結成
- 日本では男性普通選挙法と治安維持法が制定
- 1927年 上海クーデタ・国共分裂・南京国民政府の樹立
- 日本では金融恐慌
- 1928年 張作霖爆殺事件(奉天事件)・北伐の完成
- 1929年 世界恐慌
- 1931年 毛沢東が中華ソヴィエト共和国臨時政府を成立
- 柳条湖事件をきっかけにした満州事変・上海事変
- 1932年 日本が満州国を建国・五・一五事件
- 1934年 共産党の長征と八・一宣言
- 1935年 幣制改革
- 1936年 西安事件
- 日本で二・二六事件
- 1937年 盧溝橋事件をきっかけに日中戦争
▼次回の記事はこちらです
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/20c-far-east-160x90.png)
最後までお読みいただき、ありがとうございました。