大航海時代はスペインとポルトガルが世界へ一番乗りして、勢力をのばしていきました。特にスペインは絶対王政の時代を迎えて絶好調でした。しかしオランダがスペインから独立して、世界進出の中心になっていきます。
オランダ独立戦争
今のオランダ、ベルギーのあたりは昔、ネーデルラントとよばれていました。
今のベルギーにある商業都市アントウェルペン(アントワープ)は15世紀以降、中継貿易の要所として栄えていました。
ネーデルラントは、1556年にフェリペ2世がスペイン国王になると同時に、オーストリア領からスペイン領となりました。
フェリペ2世は、ネーデルラントに重税をかけたりカトリック信仰を強制したりしました。
重税とカトリック強制に怒ったネーデルラントは1568年、スペインからの独立を求めてオランダ独立戦争を起こしました。
しかしネーデルラントは、北部ではカルヴァン派であるゴイセンが、南部ではカトリックが主流だったため、北部と南部とでは、この戦争にかける気合いに差がありました。
1579年、 南部10州はスペインに降伏しました。 いっぽう北部7州は同年ユトレヒト同盟を結成し、戦い続けました。ユトレヒト同盟の中心となったホラント州は、日本語での呼称「オランダ」の語源です。
北部7州は1581年に ネーデルラント連邦共和国(オランダ)として独立を宣言しました。トップである総督にはユトレヒト同盟の指導者であるオラニエ公ウィレム(オレンジ公ウィリアム)が就任しました。
1609年にオランダとスペインの間で休戦条約が結ばれ、オランダは実質的に独立を達成しました。首都はホラント州の州都アムステルダムです。
オランダは1648年のウェストファリア条約によって国際的に承認されました。
オランダのアジア・アメリカ進出
オランダがスペインから独立した後は、オランダが世界をまわって貿易で活躍します。
オランダは独立直後からアジア・アメリカ地域にどんどん進出しました。
アジア・アフリカ方面
オランダは1602年、貿易会社の東インド会社を設立して、ジャワ島のバタヴィアを拠点としてアジアでの貿易を行いました。
1623年、東南アジアのモルッカ諸島のなかにあるアンボイナ島で、アンボイナ事件が起きました。
この島にいたオランダ人が「イギリス人たちが自分たちを襲おうと計画している」と言い張って、イギリス商館の職員を殺害した事件です。
オランダはこの事件をきっかけにイギリスをインドネシアから追い出し、マラッカ、バタヴィア、アンボイナ、モルッカ諸島、スリランカなど、東南アジアのほとんどを占領しました。
ほかにもオランダは台湾やアフリカ最南端のケープ植民地を占領し、拠点にしました。
マラッカはポルトガル(1511~)→オランダ(1641~)→イギリス(1824~)、と支配者が変わっていきました。
また、モルッカ(マルク・香料)諸島は16世紀はポルトガルが、17世紀はオランダが支配しました。
アメリカ方面
オランダはアメリカ大陸進出のために1621年に オランダ西インド会社を設立しました。
北米にニューネーデルラント植民地をつくり、貿易拠点としてニューアムステルダム(現在のニューヨーク)をつくりました。
(ケープ植民地とニューネーデルラント植民地は、のちにイギリスに奪われます。)
19世紀以降のアジア支配
1824年、オランダはイギリスとイギリス=オランダ協定を結び、「マラッカ海峡の東側をイギリス、西側をオランダが侵略して、お互いぶつからないようにしようね」と取り決めました。
オランダは、マラッカ海峡の西側にあったジャワ島とスマトラ島の支配を開始しました。
ジャワ戦争
1825年、ジャワ島の住民が反乱を起こしました。これをジャワ戦争といいます。
オランダは反乱を鎮圧しましたが、鎮圧にお金がかかりオランダの財政は悪化しました。
そこでオランダは、コーヒーなどの商品作物を強制的に作らせる強制栽培制度を導入しました。こうして作った商品作物をヨーロッパへ輸出して、オランダは財政をたてなおしました。
アチェ戦争
1873年には スマトラ島の北部のイスラーム国家のアチェ王国がオランダに抵抗し、アチェ戦争が勃発しました。
オランダが勝利して、オランダは現在のインドネシアにあたる地域にオランダ領東インドを完成させることになりました。
第一次世界大戦以降
オランダは第一次世界大戦、第二次世界大戦では中立の立場でしたが、1940年にドイツ軍に占領支配されました。また、オランダ領東インドは1942年に日本軍に占領されました。
オランダ本国は1945年にドイツが降伏したあと、ふたたび独立しました。
オランダ領東インド(インドネシア)の独立についてはコチラをご覧ください
おわりに
以上です。
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