イスラム世界の歴史(4)【オスマン帝国の歴史・前半】

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イスラム世界とアフリカの歴史

イスラム教が生まれた中東と、その後イスラム教の国ができたアフリカ、アジアの地域を「イスラム世界」として、その歴史を高校世界史の範囲をメインに解説していきます。
今回は4回目です。

今回はオスマン帝国の歴史について解説していきます。長い歴史なので前半・後半にわけます。

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建国~最盛期

オスマン帝国は1299年に建国されたイスラム教スンナ派の国です。昔は「オスマントルコ」などとも呼ばれていました。
ビザンツ帝国やエジプトのマムルーク朝を滅ぼし、16世紀には小アジア、西アジア、シリア、エジプト、バルカン半島などを支配する巨大な国に成長しました。
トルコ共和国ができる1922年までの600年以上、ながーーーく続いた国です。

建国初期

オスマン帝国の建国者オスマン1世は1299年にアナトリア(小アジア)に国をつくり、その後、非イスラーム教のバルカン半島に侵攻し、領土を広げました。

ムラト1世の時代には、バルカン半島東南のアドリアノープルをビザンツ帝国から奪い、エディルネと改名して都にしました。

バヤジット1世

バヤジット1世はハンガリーなどの連合軍を破ってバルカン半島のドナウ川下流域を支配しました。
しかし1402年のアンカラの戦いで、バヤジット1世はティムールに負けて捕まりました。

ティムールについてもっと知りたいかたはコチラの記事をどうぞ▼

イスラム世界の歴史(2)【中東以外のイスラム王朝について】
イスラム圏の歴史を高校世界史の範囲をメインに書いていきます。 今回は2回目、アラビア半島の外のイスラーム王朝を中心に説明します。 中東のウマイヤ朝が滅亡したあと、ヨーロッパのイベリア半島でイスラーム王朝ができました。また、アッバース朝の衰退...

これによってオスマン帝国は崩壊寸前のピンチを迎えますが、なんとか復活しました。

メフメト2世

メフメト2世は1453年にビザンツ帝国を滅ぼし、コンスタンティノープルイスタンブール(イスタンブル)と改名し、オスマン帝国の都にしました。

メフメト2世
メフメト2世

俺はメフメト!ビザンツ帝国が好きすぎて、征服して都にしちゃった!

セリム1世

セリム1世は1517年にエジプトのマムルーク朝を征服しメッカメディナの支配権を得ました。
聖地を支配したためイスラーム教スンナ派の盟主としての地位を確立しました。

セリム1世
セリム1世

私はセリム。スンナ派のドンです

スレイマン1世

オスマン帝国スレイマン1世の時代に最盛期を迎えました。彼の権勢を示す建物としてスレイマン=モスクが知られています。スレイマン1世

  • ハンガリーを征服。
  • 1529年に第1次ウィーン包囲を行い、神聖ローマ帝国の皇帝カール5世をびびらせました。しかし急に寒くなったので帰りました。
  • 1538年のプレヴェザの海戦スペイン・ヴェネツィアなどの連合艦隊を破り、地中海の制海権を握りました。

というふうにたびたびヨーロッパを攻撃し、脅威となりました

スレイマン1世
スレイマン1世

俺はスレイマン!スペインに勝ったぜ!

オスマン帝国の衰退期

勢いがなくなる

最盛期を過ぎてしまったオスマン帝国。ここからは負け戦が続きます。

  • 1571年のレパントの海戦で、スペイン・ローマ教皇・ヴェネツィアの連合軍に敗北。
  • 1683年、オーストリアに対して第2次ウィーン包囲を行いましたが、撃退されました。
    1699年のカルロヴィッツ条約により、ハンガリーなどの東欧地域をオーストリアに奪われました。
  • 1821年~1829年に起きたギリシア独立戦争で、ギリシアが勝利し、オスマン帝国から独立しました。1830年のロンドン会議で、ギリシアの独立が国際的に承認されました。

エジプト=トルコ戦争

オスマン帝国の支配下でエジプトを治めていたエジプト総督ムハンマド=アリーは本国・オスマン帝国と戦争を2回起こしました。これにヨーロッパ諸国が介入しました。

1831年に第1次エジプト=トルコ戦争が勃発。エジプトが勝利し、エジプトはシリアを領有しました。

1839年の第2次エジプト=トルコ戦争ではエジプトはオスマン帝国にシリアを返すことになりましたが、オスマン帝国もエジプトとスーダンの世襲を認めさせられました。

エジプトを抑える力がなくなってきたオスマン帝国は、このままじゃいかん、近代化しよう!と思いました。

オスマン帝国の歴史、後半へつづく!(ちびまる子ちゃん風に)

オスマン帝国の制度

ここでオスマン帝国の特徴的な制度について紹介します。

ティマール制

ティマール制とは、オスマン帝国の給料制度です。オスマン帝国に使える騎士に、現金ではなく土地の徴税権を与えました。

オスマン帝国のエライ人
オスマン帝国のエライ人

給料は土地の住民から税金として自分でとりたててね!

世襲は認められず、その土地の行政権、裁判権もありませんでした。

イェニチェリ

イェニチェリとは皇帝直属の歩兵で編成された常備軍です。

オスマン帝国は征服民にイスラーム教の強制はしませんでした。
しかし優秀なキリスト教徒の少年を強制的に集めて、イスラーム教に改宗させたあとで教育や訓練を受けさせ、官僚や軍人として採用するデヴシルメという制度がありました。

この制度で集められた元キリスト教徒たちの一部がイェニチェリに組み込まれました。

カピチュレーション

オスマン帝国が外国人に対して認めた特権をカピチュレーションといいます。フランスの商人に対して住まいや商売の自由などを認めたのが最初で、後にはオランダ人やイギリス人にも与えています。

カピチュレーションは最初はオスマン皇帝が上から目線で外国人に与えてあげた権利でした。
しかし近代になってヨーロッパの力が強くなると、ヨーロッパ側の要求でほかの権利も追加させられ、事実上の不平等条約に変わっていきました。

1838年には、イギリスとオスマン帝国(そのほか、オスマン帝国の属国扱いのエジプトのムハンマド=アリー朝)との間で不平等条約のトルコ=イギリス通商条約が結ばれました。

おわりに

今回は、オスマン帝国の歴史の前半と制度について説明しました。

  • アドリアノープルエディルネと改名
  • アンカラの戦いティムールに捕まったバヤジット1世
  • ビザンツ帝国を滅ぼしてコンスタンティノープルイスタンブール)に遷都したメフメト2世
  • エジプトのマムルーク朝を征服しメッカメディナを支配したセリム1世
  • 最盛期となり、プレヴェザの海戦に勝ったスレイマン1世

というのが建国から最盛期までの流れです。この後は

  • レパントの海戦
  • 第2次ウィーン包囲
  • ギリシア独立戦争
  • エジプト=トルコ戦争

で、敗戦やいまいちな結果となります。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

▼この記事のつづきはこちら▼

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