アメリカの歴史・20世紀前半

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南北アメリカ・オセアニアの歴史

高校世界史の範囲を中心にした南北アメリカの歴史について解説していきます。

今回は20世紀初頭~第二次世界大戦のアメリカのようすについて説明していきます。

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革新主義

貧富の差

19世紀後半から、アメリカでは、巨大企業や一部の権力者・富裕層による独占と、それによる貧富の差の拡大や失業者の増加が問題になりました。

そこで、20世紀初めのアメリカは反トラスト法をつくり、独占の規制や労働条件の改善をはじめました。

この改革を革新主義といいます。

棍棒外交

19世紀末のマッキンリー大統領はアメリカ=スペイン戦争(米西戦争)に勝利したり、フィリピン、グアム、プエルトリコ、キューバ、ハワイを支配下にいれました。

その次の1901年に大統領に就任したセオドア=ローズヴェルトカリブ海政策を推進し、「棍棒外交」といわれる強引な外交をおこないました。

セオドア=ローズヴェルト大統領はパナマをコロンビアから分離・独立させ、カリブ海と太平洋を通り抜けるパナマ運河をつくりました。

ローズベルト大統領(ローズヴェルト・ルーズベルト)というと

  • 26代目セオドア・ルーズベルト棍棒外交パナマ運河の建設)
  • 32代目フランクリン・ルーズベルト世界恐慌後のニューディール政策善隣外交第二次世界大戦

の二人がいます。

第一次世界大戦戦中~戦後

アメリカは第一次世界大戦の途中から参戦し、イギリスやフランスと共に戦勝国となりました。

ウッドロー=ウィルソン

第一次世界大戦の戦前・戦中・戦後に在任していた民主党のウッドロー=ウィルソン大統領は

  • 1918年、第一次世界大戦の講和のための原則として十四カ条(の平和原則)を発表しました。
  • 戦中の1919年に、禁酒法を制定し、お酒の製造・販売・流通を禁止しました。

女性参政権

投票
投票

第一次世界大戦では女性も兵器工場で働くなど、戦争に貢献したため女性の社会的地位が向上し、参政権の獲得につながりました。

その影響で、戦後の1920年に女性参政権が認められました。

同じ時期にイギリスでも女性参政権が認められています。

孤立主義

アメリカは以前から「ヨーロッパには干渉しないし、されたくない」という孤立主義という姿勢をとっていました。

1823年の「モンロー教書」によって明確にされたのでモンロー主義ともいわれます。

そのため第一次世界大戦も途中まで参戦しませんでしたし、ヴェルサイユ条約の批准も拒否し、戦後つくられた国際連盟も、いいだしっぺなのに参加しませんでした。

民主党のウッドロー=ウィルソン大統領の後は、共和党出身の大統領が3人続きました。共和党は保守的で、改革よりも昔ながらのやり方を好む政党のため、この時代に孤立主義の姿勢がさらに強くなりました。

大量生産・大量消費

上昇
上昇

19世紀末、アメリカはイギリスを抜いて世界第1位の工業国となりました。

第一次世界大戦後、アメリカはお金を貸してもらう側の債務国から、貸す側の債権国に変わりました。大戦中、連合国に大量の兵器を輸出し、莫大な利益を得たからです。

こうして1920年以後、アメリカは世界一の経済大国となり、お金の余裕が出た人々がたくさんモノを買う大量生産・大量消費の傾向が強まりました。

民衆は、みんな流行りの音楽を買って聞く、流行りの映画を見る、広告に出ていたジュースをみんな買って飲む、マスコミで宣伝された家電や自動車をみんな買う、という現代でもよくある行動をするようになりました。

このような、1920年代のアメリカから始まった、大衆に広く愛好される文化を現代大衆文化といいます。

民族差別

迫害
迫害

一方、アメリカでは他民族を差別する動きが現れました。

1920年代、アメリカ合衆国の建国当初から多かったWASP(ワスプ)(白人で、アングロ=サクソン系で、プロテスタントのアメリカ人)という人たちがアメリカの中・上層階級を形成していました。

このワスプに該当しない民族をアメリカから排除すべきだという考え方強くなります。

一時期活動を停止していた反黒人組織のK・K・K(クー・クラックス・クラン)が、1920年代に再び活発になり、黒人だけでなく中国系や日系などの民族に対して迫害を行いました。

1920年には「アメリカ史上最悪の冤罪事件」といわれるサッコ・ヴァンゼッティ事件が起きました。2人のイタリア系移民が、証拠不十分のまま殺人容疑で死刑にされた事件です。

ほかにも、1924年には移民法が制定され、アジア系の移民が禁止されました。

世界恐慌

世界恐慌

1929年に起きた、世界的な経済不況を世界恐慌といいます。

1929年10月24日木曜日、ニューヨーク株式市場ウォール街で、株価が大暴落しました。この日は「暗黒の木曜日」と呼ばれています。

そして、アメリカで始まった経済恐慌が世界中へ広がり、世界恐慌が始まりました。

世界各国では、お金が国外に出ていかないようにする

  • ブロック経済
  • 金本位制の停止

などが行われました。

フーヴァー=モラトリアム

恐慌の発生に対し、当時のアメリカ大統領フーヴァーは1931年、フーヴァー=モラトリアムと呼ばれる政策を実施。これはドイツの賠償金支払いや、英仏のアメリカへの借金返済を1カ年停止するというものです。

しかしこの政策は、あまり効果がありませんでした。

フーヴァー大統領は、経済状態は自然に回復すると予想し、ほかには対策をしませんでした。

フランクリン=ローズヴェルト

フーヴァーの次に、1933年、アメリカ大統領に就任したフランクリン=ローズヴェルトニューディール(=新規まきなおし)と呼ばれる一連の政策を実施しました。

ニューディール政策

ニューディール政策では、経済復興のための法律や公社がつくられました。

農業調整法(AAA)によって農業生産を制限したり、過剰生産物を買い上げたりすることで、農作物の価格を安定させようとしました。

全国産業復興法(NIRA)によって、企業の救済や、労働者の団結権・団体交渉権を認め、労働者の生活が安定することをめざしました。

この全国産業復興法(NIRA)が、最高裁判所から憲法違反だと指摘されたため、かわりに1935年、ワグナー法が制定されました。これは労働者の団結権・団体交渉権を明確に認める法律でした。

テネシー川流域開発公社(TVA)を設立し、公共事業(ダムの建設)を実施して失業者に仕事を与えました。

善隣外交

握手
握手

ローズヴェルトは外交方針も大きく転換し、友好的な態度をとる善隣外交を展開しました。特にラテンアメリカ諸国への態度を軟化させ、キューバの独立を認めました。

さらには、長く対立していたソ連を承認しました。

ローズヴェルトは、第二次世界大戦末期の1945年4月に亡くなるまで大統領を続けました。

第二次世界大戦についてはこちら

今回はここまでです。

▼次回はこちら

第二次世界大戦後の歴史・アメリカ陣営とロシア(ソ連)陣営(1970年代まで)
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最後までお読みいただきありがとうございました。

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