高校世界史の範囲を中心にした第一次世界大戦について解説していきます。
今回は戦後の話です。とりあえず第一次世界大戦の軽いおさらいからです。
第一次世界大戦について
1914年、サラエボ事件(サライェヴォ事件)をきっかけにオーストリアはセルビアに宣戦布告しました。
セルビアにはパン=スラヴ主義なかまのロシアが加勢しました。
オーストリア側にはパン=ゲルマン主義なかまのドイツが参戦しました。
さらに三国同盟と三国協商の国が次々に参戦し
- ロシア・イギリス・フランスの協商国(=連合国)側
- ドイツ・オーストリアの同盟国側
に分かれて戦うことになりました。
その後
- 同盟国側に、オスマン帝国やブルガリアが参加
- 1914年8月、日英同盟を口実に日本がイギリス側(協商国側)で参戦
- イタリアが1915年、「未回収のイタリア」につられて同盟国を裏切って協商国側で参戦
- 1917年にアメリカが協商国側で参戦
などがあり、戦争は拡大しました。
第一次世界大戦では潜水艦・航空機・戦車・毒ガス・機関銃が戦争に使われ長期化し、各国はすべての力を戦争につぎこむ総力戦となりました。
アメリカの参戦で協商国側は有利になり、1918年の秋にはブルガリア、オスマン帝国、オーストリアが降伏。
残されたドイツでは、水兵たちがキール軍港で反乱を起こしたあとドイツ革命が本格化してドイツ皇帝ヴィルヘルム2世が亡命しました。
ドイツ帝国は崩壊し、新たにできたドイツ共和国は協商国とドイツ休戦協定を結び、第一次世界大戦は終結しました。
パリ講和会議
![会議](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/真剣な会議.png)
大戦終了後の1919年1月、今後について話し合うパリ講和会議が開催されました。
パリ講和会議に参加したのは第一次世界大戦の戦勝国である連合国のみでした。敗戦国や、ロシア革命によって社会主義国となったロシアは講和会議によばれませんでした。
アメリカ大統領ウッドロー=ウィルソンは、自身が発表した十四カ条の平和原則にもとづき、各国は平和維持に努めるべきだ、と主張しました。
しかしイギリス首相ロイド=ジョージやフランス首相クレマンソーは「ドイツに厳しい制裁をくだすべきだ」と主張しました。
十四カ条の平和原則
ウィルソン大統領が発表した十四カ条(の平和原則)の主なものをあげておきます。
- 秘密外交の廃止(国民に内緒で外交の約束をするのはやめよう)
- 海洋の自由(戦時中でも自由に船が通れるようにしよう)
- 関税障壁の撤廃(関税をかけるのはやめよう)
- 軍備縮小(戦艦とかを減らそう)
- 植民地問題の公正な解決(植民地の支配される側だけでなく、支配する側の権利も大事だよね)
- 国際平和機構の設立(国際連盟をつくろう)
- 民族自決(各民族が他国に支配されずに自分たちのことを決めるのが理想)
ヴェルサイユ条約
![条約・和解](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/条約.png)
1919年6月、ドイツと連合国との間でヴェルサイユ条約が結ばれました。この条約に基づき、ドイツは領土削減や軍備制限など厳しい制裁を受けました。
また、ヴェルサイユ条約で国際連盟が設置されることも決定しました。
第一次世界大戦後の世界秩序をヴェルサイユ体制といいます。
ドイツ以外の敗戦国
ドイツ以外の敗戦国は連合国とそれぞれ、講和条約を結びました。
- オーストリアはサン=ジェルマン条約
- ブルガリアはヌイイ条約
- ハンガリーはトリアノン条約
- トルコはセーヴル条約
を、それぞれ締結しました。
オーストリア=ハンガリー帝国は解体となりました。ハプスブルク家の皇帝は退位し、オーストリアは共和国になりました。また、ポーランドやハンガリーが独立しました。
ドイツへの措置
ドイツの領土削減
![賠償金や領土削減](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/09/賠償金や領土削減.png)
ヴェルサイユ条約に基づき、ドイツは全ての海外植民地を失いました。さらに、アルザス・ロレーヌをフランスへ割譲し、ポーランド回廊と呼ばれる地域はポーランドへ割譲されることになりました。
さらに、ドイツとフランスの国境にあるラインラント地域の非武装化が約束され、ドイツ軍を置くことが禁止されました。
ドイツの賠償金
ドイツが払う賠償金は、総額1320億金マルク(現代の日本円にして 約200兆円)という莫大な額が決定しました。
ルール占領
ドイツの賠償金支払いが滞ると、これを理由にフランスが、ベルギーと共にルール地方を占領しました。ドイツ西北部に位置するルールは、ヨーロッパ最大の炭鉱がある工業地帯として有名でした。
これに対しドイツは、生産を停止するといった抵抗を行いました。すると、生産が低下したことでドイツ国内はインフレーションが起きました。
ドーズ案
アメリカの銀行家ドーズは、ドイツ救済のため、賠償金支払いの方法や期限についての新しい計画を考えました。これをドーズ案といいます。
アメリカがドイツにお金を貸し、これを使ってドイツは復興を進め、英仏に賠償金を払います。英仏はそのお金で経済を復興し、第一次世界大戦でアメリカから借りていたお金を返す、という仕組みです。
ドイツが賠償金を支払う体制が整ったことで、フランスはルールから撤兵しました。その後ドーズ案に続いてヤング案が出され、ドイツの賠償金は減額されました。
世界恐慌
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/世界恐慌_s.png)
しかし1929年に世界恐慌が起きたさい、アメリカはフーヴァー=モラトリアムを発表し、ドイツの各国の賠償支払いや、アメリカへの借金支払いを1年間延期すると宣言しました。
各国の経済状況は悪化し、ドイツの賠償金支払いも再び滞りました。
国際連盟
![輪になる人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/輪になる棒人間2.png)
1920年、世界初の国際平和維持組織として国際連盟が誕生しました。
国際連盟の本部である連盟事務局はスイスのジュネーヴにおかれ、総会と理事会が設置されました。
理事会は、国際連盟の中心となる常任理事国 (英・仏・伊・日)と、ほかの非常任理事国の中の数か国で構成されました。
国際連盟に設置された国際労働機関(ILO)は労働問題の調整を行い、暗に社会主義革命が起きるのを防止していました。
国際連盟の問題点
![悩むようす](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/悩んだ顔.png)
提唱国であるアメリカは連盟に不参加でした。
また、総会は多数決ではなく全会一致の原則を採用していたので、ときおり決議が難航しました。
それに、どこかの国が連盟の勧告を無視しても、制裁のための軍事力がなかったため、紛争の解決が困難でした。
国際連盟による旧オスマン帝国領の委任統治
![領土分裂](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/分裂_s.png)
第一次世界大戦後、アラビア半島以外の旧オスマン帝国領では、国際連盟が領土を預かり、その統治を先進国に委ねる委任統治が行われるようになりました。
旧オスマン帝国領のうち
- イラク・パレスチナ・トランスヨルダンはイギリス
- シリア・レバノンはフランス
の委任統治のもとにおかれることになりました。
このときの国境線は民族や宗教の違いを無視して引かれてしまったため、現代まで続く中東での紛争の一因となっています。
1920年代から1940年代にかけて、イラク・トランスヨルダン(今のヨルダン)・シリア・レバノンが委任統治から独立しました。
パレスチナにはユダヤ人の移住者が増え、もともといたアラブ人との対立が激しくなります。
ワシントン会議
![法律・条約文](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/法律・条約.png)
アメリカ主導で1921年に日本を含む9か国が集まり、 ワシントン会議という国際会議を開催しました。
ワシントン会議では主に
- 四カ国条約
- 九カ国条約
- ワシントン海軍軍備制限条約
の3つの条約が締結され、日本にとっては権益や国力をそがれる内容でした。
ワシントン会議によって決まった東アジア・太平洋地域の秩序をワシントン体制といいます。
四カ国条約
米・英・仏・日の四カ国が、太平洋の島々にもつ領土や権利について取り決めた条約です。この条約の内容には日英同盟の解消が含まれていました。
九カ国条約
![弁髪の人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/弁髪の人.png)
中国の主権や独立の尊重についての条約で、アメリカ・日本・中国などが締結しました。
これにより日本は、第一次世界大戦中に中国にだした二十一カ条(の)要求によって中国から得た権益がなくなりました。
ワシントン海軍軍備制限条約
1922年、米・英・日・仏・伊の五大国間での主力艦(戦艦)の保有比率を決めるワシントン海軍軍備制限条約が結ばれました。
これにより兵器や装備などを削減・撤廃して軍隊の規模を小さくする軍縮がすすみました。
その他の国際条約
他国と友好的な関係を築き、国際社会で協力しようとする国際協調主義がすすみ、いろいろな国際条約が結ばれました。
ロカルノ条約
1925年、西ヨーロッパ7か国の間で、安全保障に関するロカルノ条約が締結されました。敗戦国ドイツと西欧諸国との間の国境は現状維持とされ、国際紛争の解決手段として武力を用いないことが確認されました。ドイツもロカルノ条約に調印し、翌年には国際連盟への加入を果たしました。
不戦条約 (パリ不戦条約)
![肩を組む人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/肩を組む人たちのイラスト(棒人間).png)
1928年、アメリカ国務長官ケロッグと、フランス外相ブリアンが提唱し、ヨーロッパ・アジア・アメリカなど多くの国が調印した不戦条約 (パリ不戦条約)が締結されました。
ロンドン軍縮会議
1930年、アメリカやイギリス・日本などによるロンドン軍縮会議が開かれました。1922年のワシントン海軍軍備制限条約で主力艦の保有比率が規定されたのに対し、ロンドン軍縮会議では補助艦の保有比率が規定されました。
▼このあとの世界的に大きな出来事についての記事はこちらです
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/ww2-160x90.jpg)