第二次世界大戦

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規模が大きめな世界史(おもに近現代)

一般に第二次世界大戦は、1939年のドイツのポーランド侵攻から、1945年8月15日の日本の敗北までとされます。

第二次世界大戦は、「枢軸国」と「連合国」の2つの陣営に分かれ、8年つづく戦争となりました。

  • 枢軸国」はドイツ・イタリア・日本などです。
  • 連合国」はイギリス・フランス・中国、途中から参戦したソ連・アメリカ合衆国を加え、最終的には50か国以上になりました。
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スペイン内戦と三国防共協定

三国防共協定
三国防共協定

枢軸国」のなりたちについて説明します。

1936年7月、スペインで、社会主義の人民戦線内閣と、ファシズム政党を支持するフランコ将軍が率いる軍部との間でスペイン内戦が起きました。

ファシズム国家であるドイツ・イタリアはフランコを支援しました。

スペイン内戦をきっかけに接近したドイツとイタリアは、1936年、内戦のさなかにベルリン=ローマ枢軸の成立を宣言。こうしてドイツとイタリアが提携しました。

このあとドイツは日本にも近づき、1937年にドイツ・イタリア・日本による三国防共協定が成立しました。「防共」とは「共産主義や社会主義の拡大を防ぐ」という意味です。

この三か国は第二次世界大戦で「枢軸国」として協力することになりました。

1933年に日本とドイツが、1937年には、イタリアが、というように、「枢軸国」の3か国が国際連盟を脱退しました。

こうして第二次世界大戦に突入していきます。

ドイツによる第二次世界大戦開始

戦争
戦争

1930年代のドイツはナチス=ドイツといわれ、ヒトラー率いるナチ党の一党独裁になっていました。

世界史ドイツ編(5)第一次世界大戦後のドイツ
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ドイツは、軍備を制限されることに不満を持ち、1933年10月に国際連盟を脱退しました。同年2月には、日本も国際連盟を脱退しています。

ドイツは、フランスとの国境にあるザールをドイツ領にしました。また同年、軍備制限の否定や徴兵制の復活などをもりこんだ再軍備宣言を行いました。

ドイツは周辺の侵攻をすすめていきます。

1936年、ドイツはヴェルサイユ条約およびロカルノ条約を無視して、ラインラントの非武装地帯に軍隊を進駐させました。(ラインラント進駐

1938年3月、ナチス=ドイツは武力でオーストリア共和国を併合しました。

その後ナチス=ドイツはチェコスロヴァキアにズデーテン地方をわたすように要求しました。

1938年9月、この問題を解決するため英・仏・独・伊の4か国が集まってミュンヘン会談が開かれ、ズデーテン併合が認められました。

チェコスロヴァキアからしたらガッカリな結果ですが、会議の参加国たちは「ズデーテン地方をあげたら、ドイツも満足するだろう」とみこんでいたのかもしれません。

しかしその後もドイツによる侵略はつづき、チェコスロヴァキアの解体と保護国化を行いました。

さらにドイツはポーランドに対して、もともとドイツ領だったダンツィヒポーランド回廊という地域を返せと要求しました。

ポーランドはドイツの要求を拒否しました。

そのためドイツはポーランドに攻め込むのですが、まずドイツは1939年8月に、ソ連と独ソ不可侵条約を結んで、ソ連方面の安全を確保しました。

その直後の1939年9月1日、ドイツはポーランドに侵攻しました。

イギリス・フランスは、同盟関係にあるポーランドにドイツが侵攻したため、ドイツに宣戦布告しました。

こうして第二次世界大戦が始まりました。

ドイツの侵攻

ポーランド侵攻後、ドイツはデンマーク、ノルウェー、オランダ、ベルギーなどの、北欧諸国へ侵攻しました。

ドイツがノルウェーやデンマークなどの北欧を支配したため、イギリスとフランスは簡単には行き来できない状態になりました。ドイツはこうしてイギリスの攻撃を封じてから、フランスを攻撃しました。

フランス降伏

フランス降伏
フランス降伏

1940年6月、ドイツ軍にパリを占領され、フランスは降伏しました。その後、南フランスに、ドイツに協力することを義務付けられたヴィシー政府が成立し、ペタンという人が国家主席となりました。これによってフランスの第三共和政は崩壊しました。

フランスの軍人ド=ゴールはフランスの降伏に反対しました。亡命先のロンドンで自由フランス政府をつくり、フランスの人々にドイツへの抵抗を呼びかけました。こうした動きをレジスタンスと呼びます。

ソ連参戦・ソ連=フィンランド戦争(冬戦争)

ドイツとロシアのポーランド侵攻
ドイツとロシアのポーランド侵攻

1939年に独ソ不可侵条約を結んだソ連は、ドイツのポーランド侵攻のすぐ後に、自分もポーランドへ侵攻しました。こうしてポーランドはソ連とドイツによって分割されてしまいました。

その後ソ連はバルト3国へ侵攻し、併合しました。

ロシアとポーランドのあいだにあるエストニア、ラトヴィア、リトアニアを、まとめてバルト3国といいます。

さらにソ連はフィンランドにも侵攻しました。この侵攻をソ連=フィンランド戦争や、冬戦争といいます。

ソ連=フィンランド戦争を受け、国際連盟はソ連を除名しました。

イタリア参戦

ドイツが有利だった1940年に、ムッソリーニ率いるイタリアがドイツ側で参戦しました。

つぎにイタリアの話が出るのは、降伏するときです。

イギリスの政権交代

1940年5月、イギリスでは政権交代が行われました。ドイツに対して弱腰な宥和政策をとっていたネヴィル=チェンバレンに代わり、首相となったチャーチルは、国を挙げてドイツへ対抗しました。

アメリカの武器貸与法

当時のアメリカ大統領フランクリン=ローズヴェルトは、ドイツがヨーロッパを制圧することを警戒しました。

1941年3月、アメリカはイギリスなどに対し、武器や軍需物資を貸すことを可能にした武器貸与法を成立させました。この時点では、アメリカは連合国を支援しているけど参戦はしていない状態です。

2022年5月、アメリカでは、ウクライナへの軍事支援のために、この武器貸与法が復活しました。

ドイツのバルカン半島侵攻

フランスを占領した後、ドイツはイギリスへの攻撃を開始しましたが、苦戦します。

そこでドイツは標的を変えバルカン半島方面へ進出し、1941年にユーゴスラヴィアとギリシアを占領しました。

占領されたユーゴスラヴィアではティトーという人が、市民などによる非正規の軍隊(パルチザン)を指揮してドイツ軍に抵抗しました。

独ソ戦争

独ソ戦争
独ソ戦争

ドイツがバルカン半島を制圧すると、同盟国ソ連が猛反発しました。

ソ連もバルカン半島への進出を狙っていたからです。

そこでソ連は、ドイツの同盟国である日本と1941年4月に日ソ中立条約を結び、ドイツと戦争になっても、日独の両国から挟み撃ちにされないように準備しました。

そして独ソ不可侵条約が破棄され、同年の6月にドイツとソ連の独ソ戦争が勃発しました。

日本の参戦

旧日本兵
旧日本兵

1941年12月8日に真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争が開戦しました。これにより日本は枢軸国側、アメリカは連合国側として第二次世界大戦に参戦しました。

日本のようすについて、ちょっとさかのぼって説明します。

日本の戦前

1937年に日中戦争がはじまったあと、日本は朝鮮や台湾などの占領地で、神社の参拝や日本語の使用を強制する皇民化政策を実施しました。

また朝鮮では日本式の名前に変えさせる創氏改名や、朝鮮人を工場などで強制的に働かせる強制連行(徴用)を行いました。

1940年にフランスがドイツに降伏した後、日本はフランス領インドシナへ侵攻しました。

太平洋戦争

1941年12月8日に日本軍がハワイを奇襲する真珠湾攻撃が行われ、太平洋戦争がはじまりました。

日本は「大東亜共栄圏」をスローガンにしてアジア各地に侵攻し

  • イギリス領のマレー半島
  • フィリピン
  • シンガポール
  • ジャワ島・スマトラ島

などを占領しました。

日本の支配に対し、アジア各地では抵抗運動が起こりました。

中国では、長らく対立していた共産党と国民党が協力しました。

朝鮮では共産党の金日成が抵抗運動を展開しました。

東南アジアでは、ベトナムのホー=チ=ミンベトナム独立同盟(ベトミン)を結成したり、ビルマ(ミャンマー)ではアウン=サンが抗日運動を指導しました。

1942年6月、日本はミッドウェー海戦でアメリカに負け、多くの戦力を失いました。

さらに、太平洋にあるガダルカナル島をめぐる戦いでもアメリカに敗れました。

スターリングラードの戦い

1942年8月に、ドイツとソ連の間でスターリングラードの戦いが起きます。ドイツ軍はソ連の都市スターリングラードを占領しましたが、最終的にはソ連が勝利しました。

ソ連は国際連盟は脱退したけど、このときは枢軸国と戦っているので、連合軍に近い側です。なんかややこしい。

連合軍が北アフリカに上陸

1942年11月、米英を中心とする連合軍が北アフリカに上陸し、ヨーロッパへ攻め込む拠点としました。

イタリア降伏

1943年、勢いにのる連合軍は、イタリア半島の西南に位置するシチリア島に上陸した後、イタリア本土に攻め込みました。

これによりイタリアでは独裁者のムッソリーニが失脚しました。

このあと新しくバドリオ政府が成立し、1943年7月に連合軍に無条件降伏しました。

イタリアの降伏後、米・英・ソの首相はテヘラン会談を開いて、対ドイツ戦の基本方針などを話し合いました。

第二次世界大戦中の会談について

会議
会議

第二次世界大戦中は連合国を中心にかなり会談が開かれたので、ここでまとめます。

大西洋上会談

1941年8月、アメリカのローズヴェルト大統領とイギリスのチャーチル首相が大西洋上会談(米英首脳会談)を行い、第二次世界大戦終了後のアメリカとイギリスの目標を示した大西洋憲章を発表しました。

カイロ会談とテヘラン会談

1943年11月、イタリアの降伏後、米・英・中(蒋介石)の首脳がカイロ会談を開いて、対日本戦の基本方針や日本の戦後処理が話し合われました。会議の内容はカイロ宣言として発表されました。

1943年、カイロ会談の翌日、米・英・ソの首相がテヘラン会談を開催しました。

ヤルタ会談

1945年2月、米・英・ソの首脳はヤルタ会談を開催し、ドイツの戦後処理などが話し合われました。この会談の内容はヤルタ協定として発表され、米英ソによる戦後の国際体制構想が示されました。

ポツダム会談

1945年7月には、米・英・ソの首脳がポツダム会談を開催。日本とドイツの戦後処理が協議され、日本へ無条件降伏を勧告するポツダム宣言が発表されました。

※ポツダム会談に参加した各国の首脳は

  • トルーマン(米)
  • チャーチル(英、途中で首相を辞任したためアトリーに交代)
  • スターリン(ソ連)

です。アメリカでは1945年4月にローズヴェルト大統領が亡くなったため、同年2月のヤルタ会談まではローズヴェルトが、7月のポツダム会談ではトルーマンが参加しています。

ノルマンディー上陸作戦・パリ解放

イタリアが降伏した後、ドイツは追いつめられていきました。

連合軍は最高司令官アイゼンハワー(のちにアメリカの大統領になります)の指揮で1944年6月にノルマンディー上陸作戦を展開しました。

連合軍は北フランスのノルマンディーに上陸し、パリヘ進軍します。

そしてドイツ軍がパリから撤退し、1944年8月にパリが解放されました。

ベルリン陥落とドイツ無条件降伏

ドイツが不利になった状態で、ヒトラーは自殺し、ドイツの首都ベルリンが陥落しました。そして1945年5月に、ドイツは無条件降伏しました。

日本降伏

イタリアもドイツも降伏し、残ったのは日本です。

アメリカの攻撃で、日本が占領していたうち、1944年にサイパン島、1945年はじめにフィリピンが陥落しました。

アメリカは日本国内に対しても、日本本土空襲や1945年4月に沖縄本島上陸を行いました。

原爆投下

1945年2月のヤルタ会談で、アメリカののローズヴェルトとソ連のスターリンは「8月7日までに日本が降伏しなければ、ソ連は日ソ中立条約を破って日本に宣戦する」という約束をしました。

「ソ連が参戦したら、戦後の日本は社会主義国家になるかもしれない。」

そう考えたアメリカは、約束の8月7日までに日本を降伏させるため、8月6日、広島に人類史上初めて原爆を投下しました。

しかし日本は降伏しなかったため、8月8日、ソ連は日ソ中立条約を破って対日宣戦を行いました。

アメリカはつづけて8月9日、長崎原爆を投下しました。二度の原爆投下やソ連の宣戦布告をうけて日本は8月14日にポツダム宣言を受諾しました。日本は降伏し第二次世界大戦が終結しました。

おわりに

今回はここまでです。

▼第二次世界大戦後についての記事はこちらです

第二次世界大戦後の世界史
一般に第二次世界大戦は、1939年のドイツ軍のポーランド侵攻に始まり、1945年8月15日の日本の敗北までとされます。 ドイツ・イタリア・日本を中心とした枢軸国 イギリス・フランス・中国、途中から参戦したソ連・アメリカ合衆国を加えた連合国(...
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