高校世界史の範囲を中心にした東南アジアの歴史について数回に分けて解説していきます。
今回は2回目です。東南アジアの各地域での独立運動や、独立を成しとげるようすをなるべくわかりやすく、簡単に説明します。
19世紀以降、タイ以外の東南アジアのほとんどが欧米各国に支配されていました。
- ビルマ(ミャンマー)は、1886年にイギリスの植民地であるインド帝国に併合される。
- マレー半島は、イギリスによって1826年に海峡植民地、1895年にマレー連合州になる。
- カンボジア・ベトナムは1887年にフランス領インドシナ連邦になる(1889年にラオスが編入)
- ジャワ島、スマトラ島などのインドネシアは、1799年からオランダ領東インドになる。
- フィリピンは1521年からスペイン、1899年からはアメリカの植民地。
- 1940年ごろから1945年までは、日本がフランス領インドシナ、マレー、フィリピン、シンガポール、ジャワ、スマトラ、ビルマを占領。
ベトナム
ドンズー運動(東遊運動)
![留学](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/留学_s.png)
ベトナムの独立運動の指導者ファン=ボイ=チャウはフランスからの独立を目指して1904年に維新会をつくり、近代化がすすんでいた日本に留学生を送るドンズー運動(東遊運動)を始めました。しかしフランスに頼まれた日本政府によってドンズー運動は弾圧されました。
その後ファン=ボイ=チャウはあらたにベトナム光復会を結成しました。
ホー=チ=ミン
![協力](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/協力しあう人達.png)
その後のベトナムではホー=チ=ミンによって
- 1925年にベトナム青年革命同志会
- 1930年にインドシナ共産党
が結成されました。
第二次世界大戦が始まってフランス本国がナチス=ドイツに占領されると、ベトナムにドイツの同盟国である日本軍が進駐しました。ホー=チ=ミンは1941年にベトナム独立同盟会(ベトミン)を組織し、日本に抵抗しました。
ベトナム民主共和国の樹立
![独立の旗](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/独立の旗_s.png)
第二次世界大戦が終わり、ベトナムは日本の支配から解放されます。そして、ベトナム独立同盟会(ベトミン)が独立を宣言し、社会主義国のベトナム民主共和国がうまれました。初代大統領にはホー=チ=ミンが就任しました。
インドシナ戦争とベトナム国の樹立
![戦争](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/争い.png)
ベトナム民主共和国の独立宣言に反対したフランスとベトナムの間で、1946年にインドシナ戦争が勃発しました。
当時のフランスはアフリカの植民地ともアルジェリア戦争(1954~1962)という戦争を起こしています。
戦争の途中でフランスは、阮朝の血を引くバオダイを元首にして、ベトナム南部にベトナム国を樹立しました。首都はサイゴンです。
1954年5月、フランス軍はベトナム北西部のディエンビエンフーでベトナム軍に負け、休戦することになりました。同年のジュネーヴ会議でジュネーヴ休戦協定が成立しました。
ベトナムは北緯17度線を境界線として、ベトナム国とベトナム民主共和国の南北に分かれたまま、休戦しました。
アメリカの動き
![心配](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/悩む男の子.png)
アメリカは社会主義国のベトナム民主共和国を警戒して
- 反共軍事同盟である東南アジア条約機構(SEATO)の結成
- ベトナム共和国(南ベトナム)の援助
- 北ベトナムへの爆撃(北爆)
などを行います。
東南アジア条約機構(SEATO)
インドシナ戦争が休戦してすぐ、アメリカはイギリス・フランス・東南アジア諸国などと反共軍事同盟の東南アジア条約機構(SEATO)を結成しました。
ベトナム共和国と南ベトナム解放民族戦線
インドシナ戦争が休戦した後、1955年に南のベトナム国が崩壊し、アメリカの支援をうけたベトナム共和国(南ベトナム)ができました。大統領のゴ=ディン=ジエムは、独裁政治を行いました。
南ベトナムでは、ゴ=ディン=ジエム打倒と南北ベトナムの統一をめざす南ベトナム解放民族戦線が1960年に結成されました。ゴ=ディン=ジエムは軍部のクーデターで暗殺されましたが、その後もクーデタは続き、不安定な状況でした。
ベトナム戦争
![戦闘機](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/編隊で飛ぶ戦闘機.png)
南ベトナムの情勢を見たアメリカは、南ベトナム解放民族戦線と、民族戦線に協力していたベトナム民主共和国(北ベトナム)政権を倒すことにしました。アメリカは1965年に北ベトナムへの爆撃(北爆) を開始し、ベトナムに軍事介入しました。この時期の南北ベトナムをめぐる戦争をベトナム戦争といいます。
ベトナム戦争の開始時期は
インドシナ戦争が休戦した1954年
南ベトナム解放民族戦線が結成された1960年
アメリカの北爆が行われた1965年
など、諸説あります。
ベトナム(パリ)和平協定
![条約・和解](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/条約.png)
戦争は長期化しました。また、アメリカ軍のベトナム軍事介入に対して、米国内だけでなく世界中でベトナム反戦運動が起こりました。
アメリカのニクソン大統領は1972年に中国を訪問し、中華人民共和国の存在を事実上認めました。中国を味方に付け、北ベトナムとの交渉を優位に進めるためです。
そして1973年にベトナム(パリ)和平協定が締結され、米軍は「名誉ある撤退」といってベトナムから撤退しました。
米軍撤退後の1975年、南ベトナムの首都サイゴンが北ベトナム軍に占領されてベトナム戦争は終結しました。南北ベトナムは1976年にベトナム社会主義共和国として統一されました。
ベトナムは社会主義国だったため世界の中では孤立しており、食料は配給制でした。しかし1986年にドイモイ(刷新)と呼ばれる政策がはじまり、社会主義政策の緩和や資本主義経済の部分的な導入が行われました。
カンボジア侵攻と中越戦争(中国=ベトナム戦争)
![爆発](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/爆発.png)
1975年以降、カンボジアはポル=ポト政権が支配していました。
ベトナムは反ポル=ポト派を助けるため、1978年にカンボジアに侵攻しました。1979年、ポル=ポト政権は崩壊し、ベトナム軍はカンボジアから撤退しました。
ポル=ポト政権は中国と仲が良かったため、カンボジア侵攻に怒った中国が1979年、中越戦争(中国=ベトナム戦争)を起こしてベトナムに侵攻しましたが、短期間で撤退しました。
カンボジアとラオス
第二次世界大戦後
![独立の旗](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/独立の旗_s.png)
- カンボジアは1953年
- ラオスは1949年
に、フランスから独立しました。
ポル=ポト政権
1975年、ポル=ポトなどの共産主義者たちによるポル=ポト政権が成立しました。
ポル=ポトは中国のような共産主義社会をつくろうとしました。そのためにじゃまな相手や自分に逆らう人々を消し、多数の犠牲者がでました。
ポル=ポト政権に反対した人たちはベトナム軍の支援を要請しました。その結果、ベトナム軍がカンボジアに侵攻しポル=ポト政権は崩壊しました。
カンボジア王国
しかしこの後も1991年までカンボジアは内戦状態でした。内戦が終結したあと、1993年に新憲法が制定されて立憲君主国のカンボジア王国が成立しました。
ビルマ(ミャンマー)
![独立運動](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/独立運動_s.png)
ビルマでは1920年代から独立運動が始まり、イギリスからの独立をめざすタキン党が活躍しました。タキン党のリーダー、アウンサンは独立目前の1947年に暗殺されました。
第二次世界大戦後、ビルマは1948年に、イギリスから完全独立しました。
アウンサンはノーベル平和賞を受賞したアウンサンスーチーのお父さんです。
インドネシア
イスラーム同盟
![蜂起](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/声をあげる様子.png)
19世紀以降、インドネシアはオランダが支配するオランダ領東インドとなっていました。
インドネシアでは1912年にイスラーム同盟(サレカット=イスラーム)と呼ばれる組織がつくられ、民族運動の中心になりました。
インドネシア共産党
インドネシアでは1920年にアジア初の共産党であるインドネシア共産党が結成されました。その後1927年にスカルノがインドネシア国民党を組織して独立運動を指導しました。
デヴィ夫人はスカルノの奥さんでした。1962年(昭和37年)にスカルノ61歳、デヴィ夫人22歳のときに結婚しました。年の差夫婦だったんですね。
インドネシア共和国
第二次世界大戦後、インドネシアはインドネシア共和国として独立し、初代大統領にスカルノが就任しました。首都はジャカルタです。
![クーデター](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/戦車クーデター_s.png)
しかし1965年に起こった九・三〇事件と呼ばれる軍部クーデタでスカルノは失脚し、1968年には、軍人のスハルトが大統領に就任しました。
スハルトは開発独裁を行いましたが、1990年代後半に起きたアジア通貨危機の混乱を解決できず、1998年に退陣しました。
開発独裁とは、経済を成長させるために正当化された、強い権力による独裁政治のことです。
2002年には、1976年にインドネシアに併合されていた東ティモールが分離・独立しました。
マレー半島
マレーシア連邦
東南アジアのマレー半島地域はマラヤ連邦という、イギリス連邦の自治領となっていました。第二次世界大戦後、マラヤ連邦は1957年に、イギリスから完全独立しました。
1963年には、マラヤ連邦を中心にシンガポールなどの地域が集まってマレーシア連邦が成立しました。
シンガポール独立
![口論](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/トラブル.png)
マレーシア連邦では、マレー人を優遇する経済政策が行われました。
中国系の移民である華僑は、マレー人優遇政策に反発し、1965年、中国系住民の多いシンガポールがマレーシアから分離・独立しました。
独立後のシンガポールは経済的に成長し、新興工業経済地域(NIES)の一つになりました。
NIES(NIEs)とは、1970年代に急速な工業化と経済成長をとげた国や地域のことです。韓国や台湾やブラジルもその一つです。
フィリピン
![独立万歳](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/独立万歳_s.png)
世界恐慌後、フィリピン産の安い製品によってアメリカ国内の産業は打撃を受けました。
そのためアメリカではフィリピンの独立を支持する声が高まり、フランクリン=ローズヴェルト大統領は1934年にフィリピンの独立を約束しました。同年、フィリピン独立法がアメリカ議会で成立し、10年後の独立を目指してフィリピン独立準備政府という自治政府が発足しました。
![斜に構える人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/09/斜に構える人-300x345.png)
国内の製品が売れないからフィリピンを独立させよう!ってどうなのよ
第二次世界大戦があったため、実際は戦後の1946年にフィリピンはフィリピン共和国としてアメリカから独立しました。首都はマニラにおかれました。
1965年にマルコスが大統領となり、開発独裁を行い、20年以上長期政権を維持しました。
しかしフィリピンでは反政府運動が高まりを見せ、さらにイスラーム教徒が暴動やテロを起こしました。こうした事態に対処できず、マルコスは失脚しました。
東南アジア諸国連合(ASEAN)
1967、反共組織として東南アジア諸国連合(ASEAN)が結成されました。現在では反共的な色合いは弱まり、経済協力の組織としての役割が主となっています。
東南アジアのほぼ3択クイズ:習熟度チェックにどうぞ!
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/東南アジア問題_s.png)
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/東南アジア問題_s.png)
おわりに
今回はここまでです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。