イスラム世界の歴史(2)【中東以外のイスラム王朝について】

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※本ページはプロモーション・広告が含まれています。また、画像の一部にAI生成によるものを使用しています。

イスラム世界とアフリカの歴史

イスラム圏の歴史を高校世界史の範囲をメインに書いていきます。

今回は2回目、アラビア半島の外のイスラーム王朝を中心に説明します。

中東のウマイヤ朝が滅亡したあと、ヨーロッパのイベリア半島でイスラーム王朝ができました。また、アッバース朝の衰退期にはエジプト・中央アジア・西アジアなどでイスラーム王朝が独立しました。
イベリア半島にできたイスラーム王朝から解説していきます。

・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。

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イベリア半島(スペイン)からマグリブ地方(アフリカ)

イベリア半島を中心とするイスラーム王朝は順番に

  1. 後ウマイヤ朝(756~1031年)
  2. ムラービト朝(1056~1147年)
  3. ムワッヒド朝(1130~1269年)
  4. ナスル朝(1232~1492年)

です。

後ウマイヤ朝

後ウマイヤ朝(こうウマイヤちょう)(756~1031)はウマイヤ朝が滅びた後に、逃げのびた王族が建国しました。都はコルドバです。

ムラービト朝・ムワッヒド朝

ムラービト朝(1056~1147)は、アフリカの先住民のベルベル人が建国しました。アフリカ北部とイベリア半島の両方を支配しました。

ムワッヒド朝(1130~1269)もベルベル人の国です。ムラービト朝を滅ぼしました。

ナスル朝

ナスル朝(1232~1492)の都グラナダには、イスラム建築のアルハンブラ宮殿がつくられました。

1492年にナスル朝レコンキスタをすすめていたスペイン王国に滅ぼされました。

レコンキスタについてもっと知りたいかたはコチラの記事をどうぞ

エジプトのイスラム国家

エジプトのイスラーム王朝は、順番に

ピラミッド
  1. シーア派ファーティマ朝(909~1171)
  2. サラディンの建てたアイユーブ朝(1169~1250)
  3. マムルーク朝(1250~1517)

です。全てカイロを都にしました。

ファーティマ朝

ファーティマ朝(909~1171)は、

  • シーア派アッバース朝から独立してたてた王朝です。
  • アズハル学院というイスラーム世界最古の大学が建てられました。
学校
大学

イスラム教はおおまかに「スンニ派(スンナ派)」と「シーア派」の2つの宗派に分かれています。
シーア派は、第4代正統カリフのアリーと、その子孫のみをムハンマドの正統な後継者とみなす人たちで、イスラーム教の中では少数派です。
スンニ派(スンナ派)はイスラム教徒の8~9割をしめる多数派です。

アイユーブ朝・マムルーク朝

十字軍
十字軍

アイユーブ朝(1169~1250)の建国者はサラディンという人で、十字軍と戦ったことで知られています。

マムルーク朝(1250~1517)はカーリミー商人を保護したことで知られます。
カーリミー商人はダウ船と呼ばれる木造の帆船に乗って海上交易を行いました。

カーリミー商人をふくむイスラム教徒の商人をムスリム商人といいます。
また、カーリミー商人や中国の商人が中国~中東を船で行き来するのに使った航路を「海の道」といいます。

1517年、マムルーク朝オスマン帝国セリム1世に征服され、エジプトはオスマン帝国に長い間支配されます。

アッバース朝のあとの中央アジア・西アジアの興亡

中央アジア(イランの北のほう)では順番に

  1. サーマーン朝
  2. トルコ系のカラハン朝
  3. 西遼(別名・カラキタイ)
  4. チャガタイ=ハン国
  5. ティムール朝

が栄えました。


西アジア地域(イラン・イラク)では、順番に

  1. シーア派ブワイフ朝
  2. セルジューク朝
  3. ホラズム=シャー朝
  4. イル=ハン国
  5. ティムール朝

が栄えました。

ティムール朝は中央アジアと西アジアの両方を支配する大帝国となりました。

モンゴル人
モンゴル人

チャガタイ=ハン国イル=ハン国は「モンゴル系の国」「だいたい同じ時代にあった」「ティムール朝に征服された」と、共通点が多いです。
カラハン朝も名前にハンがついていますが、こちらはトルコ系の国です。

ティムール朝が滅亡した後は、イランのほうはサファヴィー朝、イラクのほうはオスマン帝国が支配しました。

中央アジアのイスラム国家

サーマーン朝

中央アジアのサーマーン朝(873~999)はアッバース朝から独立した、イラン人系のイスラム政権です。最初のトルコ系イスラーム王朝であるカラハン朝(940頃~1132頃)に滅ぼされました。

西遼(カラキタイ)

カラハン朝を滅ぼしたのが西遼(1132~1211)です。別名カラキタイです。

西遼の建国者は耶律大石(やりつたいせき)という人です。中国の契丹族の国であるが滅んだ時に中央アジアに逃げのびて、国を作りました。

チャガタイ=ハン国

西遼のあとはチンギス=ハンの子孫が建国したモンゴル系のチャガタイ=ハン国(1227~14世紀後半)が中央アジアを支配しますが、14世紀に東西に分裂しました。

中央アジアの覇権は、イラン人→トルコ人→契丹族→モンゴル人と、めまぐるしく移り変わりました。

ティムール朝

ティムールは、分裂した西チャガタイ=ハン国から独立して、ティムール朝(1370~1507年)をつくりました。都は中央アジアのサマルカンドです。

征服

ティムールはチンギス=ハンの子孫を名乗り、中央アジアから西アジアまでを支配する大帝国をつくりました。おもな勝ちいくさは

  • 西アジア(イラン・イラク)のイル=ハン国を征服・支配します。
  • 南ロシアのキプチャク=ハン国を攻撃し、領土を広げます。
  • インドのデリー=スルタン朝のひとつのトゥグルク朝を征服しました。
  • 1402年のアンカラの戦いオスマン帝国皇帝バヤジット1世を捕まえました。

ティムールは中国への遠征を計画していた途中で病死しました。

ティムール朝4代目君主のウルグ=ベクは文化面の発達に力をいれたことで有名です。

その後ティムール朝は、中央アジアからきたウズベク人という遊牧民に攻撃されて衰退し、1507年に滅亡しました。

ティムール朝のあった地域は、イランのほうはサファヴィー朝、イラクのほうはオスマン帝国が支配しました。

また、ティムールの子孫のバーブルは、インドでムガル帝国(1526~1857年)をつくりました。

ウズベク人について

モンゴル系トルコ人のウズベク人は16世紀、中央アジアにブハラ=ハン国ヒヴァ=ハン国コーカンド=ハン国を建国しましたが、いずれも19世紀にロシアに支配されました。

1924年にソヴィエト社会主義共和国連邦(ソ連)の傘下に入ります。ソ連の崩壊後に独立し、1991年にウズベキスタン共和国となりました。

西アジア(現在のイラン・イラク)

西アジア地域では、順番にシーア派のブワイフ朝 → セルジューク朝 → ホラズム=シャー朝 →イル=ハン国 →ティムール朝が栄えました。

ブワイフ朝

ブワイフ朝(932~1062)は、イスラーム教の少数派であるシーア派の王朝で、イランに建国されました。

10世紀半ば、ブワイフ朝のリーダーは、アッバース朝カリフが治めるバグダードを占領し、カリフから「大アミール」という称号をもらい、実質的な権力を得ました。これによりアッバース朝のカリフは宗教的な権威だけの存在になり、政治的な権力はなくなりました。

ブワイフ朝
ブワイフ朝

西アジアはこれから、大アミールさまのものだ!

カリフ
カリフ

ブワイフ朝怖いよーたすけてー

セルジューク朝

セルジューク朝(1038~1194)はトゥグリル=ベクという人が中央アジアにつくった国で、その後西アジアにも勢力をひろげました。

セルジューク朝はバグダードにいたブワイフ朝を滅ぼし、アッバース朝のカリフを救出しました。この功績から、セルジューク朝の指導者はスルタンの称号を得ました。

カリフ
カリフ

セルジューク朝、ありがとう!

以後、イスラーム教の多数派であるスンナ派の君主のことをスルタンと呼びます。

セルジューク朝ビサンツ帝国に侵攻し、十字軍派遣のきっかけを作りました。

またセルジューク朝は封建制度に似たイクター制を整備しました。
イクター制とは、ブワイフ朝で始まった給与制度です。軍人や官僚に、お金ではなく土地の徴税権を与えていました。

セルジューク朝は十字軍やモンゴルとの戦いで衰退し、滅亡しました。

ホラズム=シャー朝

セルジューク朝から11世紀末に独立したホラズム=シャー朝(1077~1231)は中央アジアの西遼やインドのゴール朝から領土を奪い、セルジューク朝なきあとのイラン~アフガニスタン方面で栄えました。モンゴルのチンギス=ハンに征服されました。

イル=ハン国

モンゴル系のイル=ハン国(1258~1353)は、フラグという人が建国しました。
フラグはチンギス=ハンの息子で、モンケフビライの弟です。アッバース朝を滅ぼした人でもあります。

イル=ハン国はガザン=ハンという王様の時代に最盛期を迎えました。当時の宰相だったラシード=アッディーンは『集史』という歴史書を著しました。

イル=ハン国は、上の文章にもでてきたティムール朝に征服されました。

イスラム王朝のまとめ表

国の名前がたくさんで、もうおなかいっぱいです・・・😵

整理するために、地域別にでた国の名前を、時代別に並べてみます。

今回はでませんでしたが、インドのイスラム王朝ものせました。

イベリアエジプト中央アジア西アジアインド
8世紀後ウマイヤ朝アッバース朝
9世紀サーマーン朝
10世紀ファーティマ朝カラハン朝ブワイフ朝ガズナ朝
11世紀ムラービト朝セルジューク朝
ホラズム=シャー朝
12世紀ムワッヒド朝アイユーブ朝西遼(カラキタイ)ゴール朝
13世紀ナスル朝マムルーク朝チャガタイ=ハン国イル=ハン国デリー=スルタン朝
14世紀ティムール朝ティムール朝
イスラム王朝

イスラム王朝の歴史クイズ

ムワッヒド朝が滅ぼした国は?
アンカラの戦いは何年?
アッバース朝のカリフから「大アミール」の称号をもらったのは?
王朝の特徴として、間違っているのは?
西アジアの国で、建国した順に正しく並んでいるのは?
カーリミー商人が乗った船は?
王朝の特徴として、間違っているのは?
マムルーク朝を滅ぼした人物は?
アッバース朝のカリフから「スルタン」の称号をもらったのは?
中央アジアの国で、建国した順に正しく並んでいるのは?
順番が正しいのは?
ティムールが征服していない国は?
ラシード=アッディーンがいた国は?
後ウマイヤ朝の都は?
イスラム王朝の歴史クイズ
{{maxScore}} 問中 {{userScore}} 問正解です。
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おわりに

イベリア半島では、後ウマイヤ朝→ムラービト朝→ムワッヒド朝→ナスル朝が栄えました。

エジプトではファーティマ朝→アイユーブ朝→マムルーク朝がおこり、すべてカイロを都にしました。その後はオスマン帝国が支配しました。

中央アジアでは順番にサーマーン朝→カラハン朝→西遼 (別名・カラキタイ)→チャガタイ=ハン国が栄えました。

西アジア地域(イラン・イラク)では、ブワイフ朝→セルジューク朝→ホラズム=シャー朝→イル=ハン国が栄えました。

このあとできたティムール朝は中央アジアと西アジアの両方を支配しました。

ティムール朝が滅亡した後は、イランのほうはサファヴィー朝、イラクのほうはオスマン帝国が支配しました。

次回は小アジア・エジプト・イラク方面まで広く支配したオスマン帝国についてです。

▼インドのイスラム王朝についてはこちら

▼オスマン帝国以外のアラビア半島・西アジア・エジプトの歴史はこちら

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