高校世界史の範囲を中心にしたインドの歴史について解説していきます。今回は3回目です。
インドは13世紀以降、イスラム系の王朝が台頭し、その後16世紀以降はムガル帝国が支配を築きました。しかしその後、ヨーロッパからの圧力が強くなっていきました。1857年に発生したインド大反乱(シパーヒーの反乱)の後、ムガル帝国は滅亡。そしてイギリスによって1877年にインド帝国が成立。こうしてインドはイギリスの植民地として支配されることとなりました。
その後のインドの独立運動や、第二次世界大戦後のようすなどを説明します。
インド国民会議
1885年、インド人の声をイギリス政府へ伝えるための組織として、ヒンドゥー教徒を中心としたインド国民会議が結成されました。
最初はわりとイギリスに協力的だったのですが、しだいにインドの独立を強く求める団体へ変わっていきました。
ベンガル分割令
1905年、イギリスはインドの反英ムードをしずめるため、ベンガル分割令を発布しました。これは、ガンジス川の下流に位置するベンガル地方を、イスラム教徒が多い東ベンガルと、ヒンドゥー教徒が多い西ベンガルに分割するものでした。
イギリスは、「ベンガルを分割すれば、インド人たちは団結して独立運動を続けるのが難しくなるだろう」と期待していました。しかし、状況は逆になりました。
東ベンガルは現在のバングラデシュがある場所です。ベンガル地方が昔、地元の人々から「バングラ」と呼ばれていたのが、「バングラデシュ」という国名の由来となっています。
カルカッタ大会4綱領
![蜂起](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/声をあげる様子.png)
ベンガル分割令に反発したインド国民会議はカルカッタ大会を開催しました。
この大会で、国民会議の指導者ティラクを中心としてカルカッタ大会4綱領が採択されました。
4綱領の内容は以下のようなものです。
- 英貨排斥(イギリスの製品を買わない)
- スワデーシ(国産品を使う)
- スワラージ(自治・独立を獲得する)
- 民族教育(インドの青少年に対し、イギリスの植民地教育を否定し、インドの民族的自覚を促す教育をする)
このころからインド国民会議のメンバーたちは、国民会議派という政党をつくり、民族運動をおこなっていきました。
全インド=ムスリム連盟
インド国民会議のベンガル分割令反対運動に対抗して、1906年にイギリスはインドのイスラーム教徒の政治団体である全インド=ムスリム連盟の結成を支援しました。
イギリスは、インド統治において、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の対立をたびたび利用しました。
イギリスの策略によりインドでのイスラーム教徒とヒンドゥー教徒の対立が強まりました。しかし反対運動はおさまらず、1911年にベンガル分割令は撤回されました。
第一次世界大戦戦中・戦後
![うまい話をする人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/詐欺師.png)
国民会議派と全インド=ムスリム連盟は敵対していましたが、第1次世界大戦中は、一時的に協力して反英運動をしました。
第一次世界大戦でイギリスがオスマン帝国と戦ったため、オスマン帝国のカリフを支持する全インド=ムスリム連盟がイギリスに反発したからです。
イギリスは反英運動を鎮めるため、反英運動をやめて戦争に協力すれば、戦後に自治を保証すると約束しました。
しかし、大戦後の1919年にイギリスはインド統治法を制定し、一部の行政をインド人に任せるとしたものの、大戦前に約束された自治とは大きく異なる内容でした。
同じ年には、反英運動を弾圧するローラット法が制定され、令状なしの逮捕や裁判なしの投獄ができるようになりました。
そのためインドとイギリスの対立は続きました。
「インド統治法」という名前の法律はいくつかあります。有名なのは1919年と1935年のものです。
アフガニスタンの独立
インドの北部に位置するアフガニスタンも、1879年からイギリスの保護国となっていましたが、1919年、インドより先にイギリスから独立しました。
20世紀初頭の前後には三回にわたってイギリスとアフガニスタンの戦争ありました。これをアフガン戦争といいます。
1838年に始まった第一次アフガン戦争では、イギリスが撤退しました。
1878年に始まった第二次アフガン戦争によってイギリスがアフガニスタンを保護国化しました。
1919年の第三次アフガン戦争によってイギリスはアフガニスタンの独立を認めました。
その後も、アフガニスタンでは
ソ連のアフガニスタン侵攻(1979~1989年)
アフガニスタン内戦(1978年以降、たびたび発生)
21世紀に入ってからのアメリカ軍とターリバーン(タリバーン・タリバン)によるアフガニスタン戦争(アフガニスタン紛争/米軍のアフガニスタン侵攻)
など、さまざまな紛争が起きています。
ガンディー
![ガンジー](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/糸車を回すガンジー.png)
インドの独立運動の話に戻ります。
1919年ごろから、ガンディーがインド独立運動をはじめました。
ガンディーは暴力を使わずにイギリスに抵抗する運動を指導しました。この非暴力・不服従を特徴とする彼の運動をサティヤーグラハといいます。
ガンディーの活動に影響を受け、インドの独立運動は加速しました。
1929年、国民会議派のネルーを中心にラホール大会が開かれ、プールナ=スワラージ(完全なる独立)が宣言されました。
これは「自治」ではなく、イギリスからの「完全な独立」をめざすことを明言したものです。
ガンディーは第2次非暴力・不服従運動の一環として、塩の行進を行いました。
これはイギリスによる塩の専売によってインドで自由に塩が作れなくなったことへの抗議活動で、弟子たちとともに海岸へ行進し塩を作るというものです。
イギリスはインド側との話し合いの場として英印円卓会議を開催しましたが、インド側はほとんど参加せず、成果はありませんでした。
イギリスはやむをえず1935年にインド統治法(新インド統治法/改正インド統治法)を制定して、インド各州の自治を認めました。
しかし「自治」ではなく「完全な独立」をめざすインド人たちの不満は残り、第二次世界大戦中もインドの民族運動は続きました。
第二次世界大戦後
第二次世界大戦後、インド、パキスタン、スリランカがイギリスから独立しました。その後さらに、パキスタンからバングラデシュが独立しました。
インドとパキスタンとスリランカの独立
1947年、インドはインド連邦としてイギリスから独立し、ネルーが初代首相に就任しました。
1950年には憲法が制定され、インド共和国となりました。
しかし、インド連邦の独立と同時に、イスラム教徒が多いインドの一部地域がパキスタン共和国として独立しました。
パキスタンでは、全インド=ムスリム連盟の指導者ジンナーが初代総督に就任しました。
さらに、インド南部に浮かぶ島国セイロンも、インドとは別に独立しました。
セイロン島は、19世紀以来、イギリスの支配を受けていましたが、1948年にイギリス連邦内の自治国として独立し、1972年には国号をスリランカと改称しました。
インドのネルー首相に関して、以下の事項も歴史的に有名です:
- 1954年に、中国の周恩来と会談し、平和五原則を発表しました。
- 1961年には、ユーゴスラヴィアのティトー、エジプトのナセル、そしてインドのネルーが提唱する第1回非同盟諸国首脳会議が開催されました。
バングラデシュの独立
インドとは別に独立したパキスタンの領土は飛び地のような形で存在し、インドの東側と西側に、東パキスタンと西パキスタンがそれぞれ成立していました。
当初、東西パキスタンは同じ国家としてまとまっていましたが、やがて東パキスタンが独立を主張するようになり戦争が起きました。その結果、東パキスタンは1971年にバングラデシュとして独立しました。
カシミール帰属問題
![領土の奪い合い](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/陣地を奪い合う棒人間のイラスト.png)
インドとパキスタンは、成立後からずっとカシミールという地域の領有権をめぐって争っています。
カシミールの住民の多くはイスラーム教徒ですが、カシミールを治める王はヒンドゥー教徒でした。そのため、カシミールがインド、パキスタンのどっちに属するかをめぐって、インドとパキスタンはたびたび軍事衝突してきました。これをカシミール帰属問題といいます。
インドは1974年に核実験を行い、世界で6番目の核保有国となりました。それにつづいてパキスタンも1998年に世界で7番目の核保有国となりました。このように、対立するインドとパキスタンの両方が核を保有することで、核戦争が心配されています。
ガンディーの暗殺
ガンディーは、インドとパキスタンの戦争停止とヒンドゥー教徒とイスラーム教徒の融和を呼びかけました。しかし、1948年にガンディーは同じヒンドゥー教徒によって暗殺されました。
犯人は過激なヒンドゥー教徒で、イスラーム教徒との融和を説くガンディーを裏切り者とみなしていました。