十字軍とは?【中世ヨーロッパの大きな転換点を解説】

スポンサーリンク

※本ページはプロモーション・広告が含まれています。また、画像の一部にAI生成によるものを使用しています。

中世ヨーロッパの歴史

高校世界史でふれる中世ヨーロッパの歴史について数回に分けて解説していきます。今回は5回目です。

中世ヨーロッパの大きな出来事である十字軍について説明します。

ヨーロッパ諸国が、イスラム教国から聖地エルサレムをとりもどすためにおくった遠征軍を十字軍といいます。十字軍の派遣は11世紀末から約200年続きました。

スポンサーリンク

十字軍の背景

十字軍

十字軍の派遣がはじまるキッカケとして

  • 農耕技術の発達による人口増加
  • 聖地巡礼の流行

などがあります。詳しくみていきます。

農耕技術の発達による人口増加

11世紀の西ヨーロッパで、「中世農業革命」といわれる農業技術の発展があり、

  • 三圃制(さんぽせい)
  • 鉄製農具
  • 重量有輪犂(じゅうりょうゆうりんすき)
  • 動力源になる水車

が普及しました。

三圃制は、土地を3つに分け、交代で休ませる農法で、ヨーロッパの気候に合っていました。
重量有輪犂は、鉄製農具の一種で、牛に引っ張ってもらって効率よく耕すための農具です。

農業をする人
農業をする人

新しい道具のおかげで豊作じゃ!

この進歩によって食べものの量がすごく増えたので、ヨーロッパの人口は増えました

また、余った作物を売ってお金にするようになったので、お金を使って生活する貨幣経済がひろまりました。

▼ヨーロッパでの貨幣経済の普及についてもっと知りたいかたはコチラの記事をどうぞ▼

人口がふえると、土地がたりなくなってきました。ヨーロッパでは「新しい土地がほしい」と思う人たちが増えました。

土地を求める動きとして

  • 大開墾時代
  • 東方植民
  • 国土回復運動レコンキスタ

などがはじまりました。

土地を求める動き

12~14世紀にかけて、修道院を中心とした開墾運動がさかんになりました。この時期を大開墾時代と呼びます。

開墾とは、森や林の木を切って、新しく畑や住宅地をつくることです。

修道院以外にも、ドイツではドイツ騎士団たちによる東方植民が盛んになりました。これは、エルベ川以東の地域を開墾して領土を広げる活動です。

また、イベリア半島では、当時この地域を支配していたイスラーム勢力を追い出して、キリスト教勢力の土地として再征服しよう、という国土回復運動レコンキスタ)がはじまりました。
(人口増加で不足した土地を確保したいという裏事情もありました。)

イベリア半島のキリスト教徒
イベリア半島のキリスト教徒

異教徒を追い出せて土地も手に入ったら一石二鳥だ!

巡礼

巡礼とはキリスト教に縁の深い場所へを旅することをいい、11~12世紀のヨーロッパで流行しました。

とくに人気だったのが

  • カトリック教会の総本山であるローマ
  • イエス・キリストが処刑された、パレスチナのイェルサレム
  • 十二使徒のお墓があるといわれた、イベリア半島のサンチャゴ=デ=コンポステラ

の三大巡礼地です。

日本でもお伊勢参りとかが流行りましたし、今なら、アニメの聖地巡礼もありますね。

とはいえ、荘園の中にいる農民の多くは、自由な外出ができませんでした。

十字軍の開始

11世紀後半にビザンツ帝国は、イスラーム王朝のセルジューク朝に小アジアを奪われました。そして首都コンスタンティノープルも危なくなってきました。

セルジューク朝に圧迫され、ビザンツ皇帝は、ローマ教皇に助けを求めました。

ローマ教皇ウルバヌス2世は、1095年にクレルモン宗教会議をひらき、聖地イェルサレムをとりもどすため、十字軍の派遣を提唱しました。

イェルサレムはローマ帝国、そのあとのビザンツ帝国が支配していました。しかし7世紀に正統カリフ時代の2代目カリフ・ウマルがイェルサレムを征服し、それ以降はイスラム勢力が支配していました。(ただ、キリスト教徒が巡礼で入るのは認められていました。)十字軍は、このイェルサレムをキリスト教勢力のものにすることをめざしました。

ローマ教皇
ローマ教皇

みんな、イェルサレムへ、行きたいかーーー?!

十字軍の参加者
十字軍の参加者

おーーー!(巡礼できるし、新しい土地も手に入るかも)

と、ウルトラクイズのようなやりとりがあったかはわかりませんが

「外の世界に行きたい、巡礼したい、土地が欲しい」と思う人たちが多かったので、民衆も含めてたくさんの人が、全7回の十字軍に参加しました。

1096年~1099年の第1回十字軍派遣では、聖地イェルサレムの奪還に成功し、イェルサレム王国を建国しました。

しかし、調子がよかったのは最初のうちだけでした。

後半は負けや不祥事がつづく十字軍

1189年~1192年の第3回十字軍では、イスラーム教国家アイユーブ朝の君主サラディンが勝利し、イェルサレム王国を占領しました。

1202年~1204年には、「教皇は太陽、皇帝は月」発言で有名な教皇インノケンティウス3世の提唱で第4回十字軍が派遣されました。
しかし、ヴェネツィア商人が私利私欲のために十字軍ビザンツ帝国を攻撃させ、都コンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建国するという、本末転倒な事件が起きました。

第5回十字軍では、神聖ローマ帝国の皇帝フリードリヒ2世が出陣しました。しかし彼は、武力ではなく、イスラム勢力との外交交渉によってイェルサレムの奪回に成功しました。

現代人の感覚だと、「平和的に解決していいじゃん」と思うのですが、当時は戦って勝ちとるほうが正しいと思われていたので、フリードリヒ2世の行動は評判がよくありませんでした。

18世紀のプロイセンという国でもフリードリヒ2世という人が出てきますが、もちろん別人です。

1248年開始の第6回十字軍と、1270年開始の第7回十字軍では、フランス王ルイ9世が中心となってエジプトチュニジアを攻撃しました。

しかし第6回はできたばかりのマムルーク朝に敗北、第7回はルイ9世が戦地でなくなり、失敗しました。

3回目十字軍以降の流れは、サラディン→商人→話し合い→ルイ→ルイ、です。(あんまりこれで覚えられるかんじもしないですが)

モンゴル帝国への派遣

キリスト教勢力は、1206にできたモンゴル帝国に協力をお願いするために、人を派遣しました。

1243年、当時のローマ教皇に派遣された修道士プラノ=カルピニはモンゴル帝国の首都カラコルムに行きました。

同じ時期、フランスのルイ9世にモンゴル行きを志願した修道士ルブルックもカラコルムに行き、モンケ=ハンに謁見しました。

十字軍の影響

十字軍の失敗は、ヨーロッパ社会に大きな影響を与えました。

まず、十字軍をよびかけた教皇の信用が落ちてしまいました。このことは、14世紀からのルネサンスや、16世紀の宗教改革の一因になります。

金欠になった諸侯

さらに、諸侯たちはお金や武器を十字軍のために使い込んでしまいました。(とくにフランスとイギリスでは百年戦争などもあったので、諸侯がすごく没落しました。)

教皇と諸侯の権力が低下したことで、相対的に国王の権力が上昇し、このあとの絶対王政の時代につながっていきます。

また、十字軍の時代に多くの人やモノがヨーロッパを行き来したため、商業や交易が盛んになり、貿易の重要地点である商業都市ができました。

おわりに

ヨーロッパの人たちが十字軍に参加した背景は

  • 農耕技術の発達(三圃制、鉄製農具、重量有輪犂、水車の普及)
    →人口の増加
    →新しい土地を求める動き(大開墾時代東方植民、国土回復運動レコンキスタ))
  • 聖地(ローマイェルサレムサンチャゴ=デ=コンポステラ)への巡礼の流行

十字軍の始まりから終了までの流れは

  • 聖地イェルサレムセルジューク朝に占領されて、ビザンツ皇帝がローマ教皇にSOS
  • ローマ教皇ウルバヌス2世クレルモン宗教会議十字軍の派遣を提唱
  • 第1回聖地イェルサレムの奪還に成功し、イェルサレム王国を建国
  • 第3回:イスラーム教国家アイユーブ朝の君主サラディンが勝利
  • 第4回:教皇インノケンティウス3世が提唱
    ヴェネツィア商人ビザンツ帝国の都コンスタンティノープルを占領してラテン帝国を建国
  • 第6~7回:フランス王ルイ9世が主導したが失敗

十字軍による影響は

  • 教会や教皇の信用・権力が落ちる→ルネサンス宗教改革の一因になります。
  • 諸侯が没落し、国王の権力が上昇→絶対王政の一因になる
  • 商業都市の発展

などがあります。十字軍をきっかけにヨーロッパ世界は大きく変わりました。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。

▼次回は十字軍のあと変わっていくヨーロッパの都市についてです。

中世ヨーロッパの都市とは?【十字軍のあとのヨーロッパ都市の繁栄を解説】
高校世界史でふれる中世ヨーロッパの歴史について数回に分けて書いていきます。今回は6回目です。 11世紀末~13世紀末までの十字軍運動が終わってからの、ヨーロッパの商業や都市の発展について、簡単に説明していきます。 遠隔地貿易 十字軍の遠征は...
タイトルとURLをコピーしました