この記事は高校世界史でふれる範囲の古代ローマの歴史について書いている記事シリーズです。
今回は4回目、ローマ帝国の時代にはじまったキリスト教、それとローマの文化についてある程度詳しく、簡単に、説明します。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
キリスト教
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/イエス・キリスト.png)
キリスト教は、ユダヤ教を母体としてイエスが始めた宗教です。
ユダヤ教はユダヤ人(ヘブライ人・イスラエル人)がはじめた宗教です。
イエスは
- 神は無条件にみんなを愛してくれますよ、という「神の絶対愛」
- すべての人を愛しましょう、という「隣人愛」
という内容を説いて、民衆に受け入れられました。
ユダヤ教の一派であるパリサイ派は、教えや決まりである律法を守ることを重視していたのですが、イエスはパリサイ派を「形式的だ」と批判しました。
怒ったパリサイ派が「イエスは悪い奴だ」とローマの属州総督のピラトに訴えたため、イエスはエルサレム(イェルサレム)で十字架にかけられて処刑されました。
イエスのいた地域は、このころローマ帝国の属州になっていました。そして、ここを治めていたのがピラトです。
イエスの死後、民衆はイエスをキリスト(救世主)として信仰するようになり、残された弟子たちがイエスの教えを広めていきました。
イエスや弟子たちの言葉や活動をまとめたキリスト教の経典を『新約聖書』といいます。
そして『新約聖書』のなかで、イエスの言葉や活動をまとめた部分を『福音書』といいます。
イエスの直接の弟子を使徒といいます。とくに二大使徒のペテロとパウロが有名です。
- 使徒ペテロはイエスの一番弟子で、初代教皇です。
- 使徒パウロは、さまざまな民族にキリスト教を布教しました。
二人ともネロ帝の迫害で亡くなりました。
キリスト教の迫害と公認
キリスト教が公認されるまで、信者はたびたび迫害をうけました。
- 64年のネロ帝の迫害。キリスト教徒が放火をしたとして迫害しました。
- 303年のディオクレティアヌス帝の大迫害。皇帝崇拝に従わなかったため迫害しました。
- 4世紀後半のユリアヌス帝の迫害。古い多神教のほうが好きだったので、一神教のキリスト教徒を迫害しました。
が代表的です。
ユリアヌスの時代にはすでにキリスト教が公認されていたため、彼は「背教者」(キリスト教に背いた者)と呼ばれました。
キリスト教徒は迫害中、カタコンベと呼ばれる地下墓所に避難し、信仰を続けました。
長い迫害の歴史のあと、コンスタンティヌス帝は、313年にミラノ勅令を発布してキリスト教を公認し、テオドシウス帝は、392年にキリスト教の国教化を決めました。
公会議
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/自助グループのイラスト(真剣)話し合い.png)
キリスト教の宗教会議のことを公会議といいます。
まず325年、コンスタンティヌス帝がニケーア公会議を開きました。
ニケーア公会議では「イエスは神であり人である」という内容の三位一体説を主張するアタナシウス派がキリスト教の正統教義とされ、「イエスは人である」と主張するアリウス派は異端とされました。
三位一体説は、神とイエスと聖霊は、3つで1つのものとする考え方です。聖霊とは、人間を導いたり、助けたり、お告げを伝えたりする存在です。
431年のエフェソス公会議では、「イエスは人である」と主張するネストリウス派が異端とされました。追放されたネストリウス派は、中国(唐)に伝わり、景教とよばれました。
451年のカルケドン公会議では、「イエスは神である」と主張する単性論が異端とされました。
エジプトにあるコプト教会は単性論を支持して、ローマ教会(カトリック)から分離しました。
その後の公会議
古代よりもあとの公会議についても、まとめておきます。
1095年のクレルモン宗教会議では、ローマ教皇ウルバヌス2世が、十字軍の派遣を提唱しました。
1378年以降、教皇がアヴィニョン、ローマ、ピサに3人いる異常事態になっていました。これを教会大分裂(大シスマ)といいます。
1414年~1418年のコンスタンツ公会議によって、教会大分裂は終わりました。
また、教会を批判していたウィクリフやフスが異端とされ、フスは火あぶりにされました。
1545年からは、宗教改革に対してどうするかを話し合う、トリエント公会議(トレント公会議)が始まりました。
年代順に公会議を並べると、ニケーア→エフェソス→カルケドン→クレルモン→コンスタンツ→トリエント(トレント)、となります。
このあとは、古代ローマ時代の文化について簡単に説明します。
ラテン文学
古代ローマの文学はラテン語で書かれていて、ラテン文学といわれます。
- ウェルギリウスが書いたラテン文学の最高傑作『アエネイス』
- 文筆家でありカエサルに対抗した政治家でもあったキケロ
- 詩人ホラティウス
- アウグストゥスに追放された詩人オウィディウス
などがローマの代表的な文学者です。
歴史家・歴史書
- タキトゥスがゲルマン人のすばらしさを書いた『ゲルマニア』
- ポエニ戦争に参加したポリビオス
- カエサルが自分の遠征について書いた『ガリア戦記』
- リウィウスが書いた『ローマ建国史』
- プルタルコスが書いた『対比列伝』(『英雄伝』)
自然科学
- プトレマイオスが天動説を主張。カトリック教会は天動説を公式に採用しました。
- ストラボンが地理・歴史について書いた『地理誌』
- プリニウスが天文・地理・動植物について書いた『博物誌』
- ローマ領だったエジプトのギリシア系商人が1世紀に書いたとされる『エリュトゥラー海案内記』は、当時の船での貿易のようすがわかる貴重な史料です。
哲学者
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- 五賢帝のマルクス=アウレリウス=アントニヌスが書いた『自省録』
- ネロ帝の先生だったセネカ
- 奴隷出身のエピクテトス
が、ローマの代表的な哲学者です。
土木・建築
- コロッセウムと呼ばれる円形闘技場
- ローマ最古の軍道であるアッピア街道
- いくつか作られた凱旋門
- パンテオン(万神殿)と呼ばれる神殿
- 南フランスに作ったガール水道橋
- カラカラ帝がつくらせたローマの浴場
浴場は浴室だけでなく、図書室や運動場もある娯楽施設でした。
ユリウス暦
ローマではカエサル(ユリウス・カエサル)が制定したユリウス暦が使われました。
ユリウス暦を修正したグレゴリウス暦が、いま使われている太陽暦です。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/カエサル.png)
宗教
キリスト教が公認される前のローマ帝国では、軍人を中心に、ペルシャの太陽神ミトラを信じるミトラ教がはやりました。
キリスト教が公認されたあとは、キリスト教の教えについての本が書かれました。
初期のキリスト教の指導者たちを教父といいます。代表的な教父は、アウグスティヌスです。『告白録』『神の国』などの作品があります。
古代ローマの歴史クイズ
おわりに
イエスがはじめたキリスト教は、たびたびローマ皇帝に迫害されましたが、ローマ帝国の終盤には公認され、その後国教になりました。
その後、キリスト教の内容について意見が分かれましたが、公会議で正統と異端に分けられました。
- ニケーア公会議:アタナシウス派が正統、アリウス派は異端
- エフェソス公会議:ネストリウス派が異端。中国(唐)に伝わり、景教となる
- カルケドン公会議:単性論が異端
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
次回から、中世ヨーロッパのお話です。
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最後までお読みいただき、ありがとうございました。