高校世界史の範囲を中心にした中国の歴史について解説していきます。今回は5回目です。
唐(618~907年)が滅びた後、五代十国による混乱の時代になりましたが、960年に宋が建国されてひとまず落ち着きました。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
北宋
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/1対1の面接のイラスト(男性).png)
五代十国時代を終結させ、960年に北宋が建国されました。
国の名前は「宋」ですが、いったん滅亡して都を南に移したあとを「南宋」、それまでを「北宋」と区別しています。
北宋の都は開封(かいほう)です。黄河と大運河がぶつかる位置にあり、貿易都市として栄えました。「清明上河図」(せいめいじょうがず)という有名な絵に、繁栄した開封のようすがえがかれています。
北宋を建国した趙匡胤(ちょうきょういん)は、家来(特に軍人)が勝手なことをしないように
- 武力にたよらずに政治を行う文治主義をすすめました。
- 科挙に、皇帝による最終試験である殿試(でんし)を加えました。
- 地方の独立を防止するため節度使の権力を削減しました。
![趙匡胤](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/喜ぶ会社員男性-150x150.png)
なるべく武力にたよらない世の中にするよ!
北宋のまわりの異民族
![複数人に責められる人](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/パワハラ.png)
平和に過ごしたかった北宋ですが、まわりには遼・西夏・金という異民族の国があり、北宋をおびやかしていました。
西夏
西夏は李元昊(りげんこう)という人が作ったタングート族の国です。西夏文字という独自の文字を使っていました。
1227年にモンゴルのチンギスハンに征服されました。
遼(りょう)
遼(りょう)は
- 耶律阿保機(やりつあぼき)という人が作った、契丹(きったん)族の国です。
- 二重統治体制といって、遊牧・狩猟民である契丹族と、農耕民である漢人を分けて統治していました。
- 遼は北宋の内部に燕雲十六州という領土をもっていたため、北宋にとっては厄介な存在でした。
- 北宋は遼との戦争を避けるため、1004年に「澶淵の盟(せんえんのめい)」を結び、北宋は遼に毎年銀と絹の貢物を贈る約束をしました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/貢ぐ人.png)
金
金は中国東北部にあった女真族の国です。建国者の完顔阿骨打(わんやんあぐだ)は女真文字をつくらせました。
金では王重陽という人が、道教をモデルに全真教という宗教をつくりました。
金も、遼と同じように、農耕民(漢人)とそれ以外を分けて統治する二重統治体制をとっていました。金では女真人や契丹人を対象に猛安・謀克という軍事・行政組織をつくりました。家300軒をひとまとめにして、そこから100人を徴兵するという制度です。
遼・北宋・金の滅亡
金は1125年に遼を滅ぼしました。北宋は澶淵の盟がなくなるのでホッとしたかもしれませんが、1127年に北宋も金に滅ぼされました。
![逃げる](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/逃げる.png)
遼が滅びたとき、耶律大石(やりつたいせき)という人が西に逃げ、中央アジアに西遼(カラキタイ)という国をつくりました。
金も、1234年にモンゴルによって滅亡しました。
金にいた女真族はのちに後金という国をつくり、それが清になり、中国全土を支配することになります。
北宋の衰退・王安石の新法
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/金欠のイラスト(男性).png)
話は北宋の末期に戻ります。
北宋は戦争をさけるために澶淵の盟でたくさんの貢物を遼に送っていたため、しだいに財政難になります。
当時の皇帝神宗に宰相にえらばれた王安石は、新法と呼ばれる改革を進めました。
しかし北宋の官僚や学者たちは、王安石の新法に賛成する新法党と、反対する旧法党に分かれて対立します。最終的に旧法党が勝利して、王安石の改革は失敗しました。
旧法党の中心となった司馬光(しばこう)は歴史書『資治通鑑』(じじつうがん)を編年体で書いたことでも知られます。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/年長者と若者の対立.png)
1126年、弱体化した北宋は金の軍隊に都の開封を占領され、皇帝の欽宗(きんそう)と父親で前皇帝の徽宗(きそう)が金に連行されました。
この事件を靖康の変といい、これで北宋は滅亡しました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/牢屋に入れられた人.png)
南宋
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/亡命のイラスト(大陸).png)
靖康の変で北宋が滅亡したあと、欽宗の弟の高宗が南方にのがれて南宋を建国しました。
都は臨安(杭州)です。「臨時の都」という意味で名づけられました。
臨安は大運河の南端にあり、交易都市として栄えました。
日本の平清盛も南宋と貿易をしていました。
南宋では、金との戦争を主張する岳飛(がくひ)たち主戦派と、金との和平を主張する秦檜(しんかい)たちの和平派が対立しました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/年長者と若者の対立.png)
和平派が勝利し、南宋は金に貢物を贈ることで和平を結び、淮河(わいが)という川を両国の国境にしました。
南宋は150年ほど続きましたが、1276年に元に滅ぼされました。
金のほうは、ひとあし先の1234年にモンゴルによって滅びました。
宋の文化・社会
宋の時代の文化や社会の変化についてまとめました。
形勢戸と士大夫
宋では「士大夫(したいふ)」という、科挙合格者などの知識人が政治や文化の中心になりました。士大夫には「形勢戸(けいせいこ)」、いわゆるお金持ちの出身が多くいました。教育にお金をかけられる形勢戸から多くの科挙合格者がでたためです。
「形勢戸(けいせいこ)」とは、貴族が没落した後、あらたに大地主になった人たちです。形勢戸から土地を借りた小作人を佃戸(でんこ)といい、形勢戸のなかで、科挙に合格した家は官戸(かんこ)と呼ばれました。
宋の農業:占城稲の普及
![農家](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/米農家.png)
宋の時代に、成長が早い占城稲(せんじょうとう)が東南アジアから伝わってきました。
「占城」はベトナムにあったチャンパーという国のことです。
占城稲はおもに中国南部、長江下流域の蘇湖(江浙)地方で育てられました。
そのため「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」という言葉が生まれました。
宋の商業面の変化
また、商業面の変化としては
- 唐の時代にできはじめた草市(非公式の小さな町)が発展しつづけ、なかには鎮と呼ばれる商業都市になるものもありました。
- 都市では、商人の組合である行、手工業者の組合である作などが作られました。
- 宋の時代、青磁や白磁などの磁器が海外に輸出されました。中でも景徳鎮という都市が磁器のいちばんの産地でした。
- 宋で作られた銅銭が東アジア全域で使われました。
宋の国内では交子と会子という紙幣が普及しました。交子は世界最古の紙幣とされています。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/現金.png)
宋の貿易:海上貿易の発展
宋の時代は、海上貿易が発達しました。貿易には木造帆船であるジャンク船がよく使われました。
海上貿易を管理するための市舶司という役所が唐の時代に広州に置かれていましたが、宋の時代には泉州・明州などにも増設され、貿易港として栄えました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/唐船.png)
儒学・宋学(朱子学)
![和綴じの本](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/和綴じの本.png)
漢や唐の時代には、儒教の経典の文章の意味を研究する訓詁学が発展していました。
宋の時代には、宋学(朱子学)がうまれました。これは古典の研究からはなれた新しい儒学です。
北宋の周敦頤(しゅうとんい)が宋学を創始し、南宋の朱熹(朱子)が宋学を完成させました。
朱熹(朱子)は儒学の経典のうち四書を重視し、大義名分論や華夷(かい)の区別をとなえました。
四書とは、儒学の経典のうち『論語』『大学』『中庸』『孟子』をまとめて指す呼び名です。
大義名分論とは、上下の身分秩序を大事にして、臣下は君主に服従するべきだ、という考え方です。
華夷の区別とは、自分たち中国人を「華」、周辺の異民族を「夷」と呼んで区別し、自分たちは異民族より優れているんだ、とする思想です。
宋の時代の歴史家
宋代の歴史家で有名なのは
- 欧陽脩(おうようしゅう)
- 司馬光:王安石の新法に反対した旧法党のリーダーで、『資治通鑑』を執筆。年表形式で歴史を記述する編年体で書かれているのが特徴。
欧陽脩の「脩」は、「修」の右下の「彡」を「月」にかえたら、書けます!
宋の絵画(院体画・文人画)
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/掛け軸.png)
宋の時代は、
- 宮廷様式の絵画である院体画
- 士大夫層による文人画
がはやりました。
院体画の代表的な作品は、靖康の変で金につれていかれた徽宗(きそう)が描いた「桃鳩図(とうきゅうず)」です。
宋の文学
宋の時代の文章家で有名なのは欧陽脩(おうようしゅう)と蘇軾(そしょく)です。唐宋八大家という、唐~宋の時代のトップ8人の文章家や詩人の中にも入っています。
北宋では、雑劇という古典演劇がはじまり、音楽に合わせて詩を作る詞(宋詞)というものが流行りました。
宋の時代の三大発明
宋の時代には「火薬」「羅針盤」「印刷術」が発明され、中東やヨーロッパへ伝わりました。
印刷術は活版印刷や活字印刷ともいい、活字(1文字だけのハンコのようなもの)を組み合わせて文章を印刷する方法です。
中国の歴史クイズ(宋の時代まで)
おわりに
北宋は周辺の異民族に脅かされ、最後は皇帝が連れていかれて滅びました。南宋が再建されましたが、モンゴルに滅ぼされました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。