高校世界史の範囲を中心にした中国の歴史について解説するシリーズです。今回は3回目で、魏晋南北朝・隋の時代について説明します。
前回は前漢・新・後漢の時代についてでした。
220年に後漢が滅亡してから589年に隋が中国を再び統一するまでの乱世の時代を魏晋南北朝時代といいます。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
魏晋南北朝時代の流れ
魏晋南北朝時代は国がいっぱい出てきてややこしいので、先に全体の流れを説明しておきます。
まず、後漢が滅亡して、魏・呉・蜀の3つの国が覇権を争う三国時代になります。そして魏をルーツに持つ西晋が勝ち残り、中国を統一しました。
そして西晋が滅びたあと、中国では
- 中国北部では五胡十六国→北朝
- 中国南部では南朝
と、南北で別々の国がおさめるようになります。
どの国もそんなに長続きしなかったので、国がコロコロ変わっていきました。
その後、中国北部にあった隋が南部を征服して、ふたたび中国を統一しました。
三国時代から隋の中国統一までを魏晋南北朝時代といいます。
魏・呉・蜀の三国時代
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/ごっこ遊び.png)
後漢の滅亡後、中国は魏・呉・蜀の3つの国に分裂して覇権を争いました。この時代を三国時代といいます。
三国時代をテーマにした作品は「三国志」「三國無双」「蒼天航路」など、いろいろあります。
- 魏は華北(中国北部)にあった国です。魏の実質的な創始者は曹操ですが、魏の初代皇帝は曹操の息子の曹丕(そうひ)です。後漢の皇帝から王位をゆずってもらって皇帝になりました。
- 蜀は中国の南西部にある四川地方にありました。建国者は劉備です。
- 呉は中国の中部~南部の江南地方にありました。建国者は孫権です。
魏・曹操の屯田制
曹操は、兵士や流民に畑を与えて、つくらせた作物の一部を国がもらう屯田制という制度を実施しました。
魏・曹丕の九品中正
曹丕(そうひ)は、人材採用の制度として、漢の時代の郷挙里選のかわりに、九品中正という制度を実施しました。九品中正とは、派遣された中正官が地方の人材を9段階にランク分けし、それぞれに見合った役職を与えるシステムでした。
魏と卑弥呼との外交
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/卑弥呼.png)
中国の歴史書の一部分である『魏志』倭人伝には、魏に朝貢した邪馬台国の卑弥呼について書かれています。
邪馬台国は弥生時代の終わりごろに日本のどこかにあった国です。
卑弥呼は、239年に魏の皇帝から「親魏倭王」という称号をもらいました。
朝貢とは、当時の大国である中国の子分にしてもらうため、周辺の国が中国に貢ぎ物を送ることです。朝貢によって作られた中国が上、周辺国が下の主従関係を冊封体制といいます。
西晋の中国統一
魏は蜀を滅ぼした後、司馬炎(武帝)に王位を譲って西晋(単に晋ともいいます)と名前を変えます。西晋の都は魏の都と同じく、洛陽です。
![皇帝](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/中国皇帝.png)
王位を喜んで譲ったのか、しゃーなしで譲ったのかは、ご想像にまかせます
その後西暦280年、西晋は呉も滅ぼして中国を統一しました。
司馬炎の政策としては、占田・課田法という土地制度が知られています。
司馬炎の死後、王位争いの八王の乱が起きました。この内乱で国内が弱り、そのスキに316年に北方の遊牧民族匈奴にたおされます。
三国時代を勝ち残った西晋でしたが、30年ほどしか続きませんでした。
この後しばらく中国の北と南で別々の国が栄えます。
中国北部(北朝)
北部は五胡十六国のなかの北魏が台頭していきます。
五胡十六国
![五人組](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/戦隊もののキャラクターたち(集合).png)
西晋が匈奴に滅ぼされた後、中国北部は異民族の五胡によって支配されました。
五胡とは
- 匈奴
- 鮮卑(せんぴ)
- 羯(けつ)
- 氐(てい)
- 羌(きょう)
の5つの異民族の総称です。
「きょ…今日、決定戦!」(匈奴、羌、羯、氐、鮮卑)とおぼえてください。
五胡は中国北部におよそ16の国をつくりました。この国々を五胡十六国といいます。五胡の十六国ですねー。
その中で、鮮卑がつくった北魏が他の国々をたおして中国北部を統一しました。
西晋をたおした匈奴が華北(中国北部)に国をつくってから、北魏の太武帝が華北を統一するまでの、
約130年の時代を五胡十六国時代(304~439年)といいます。
北魏の華北統一
北魏は、五胡の一つである鮮卑の拓跋氏という一族が386年に作った国です。都は平城です。
朝鮮半島の平壌(ピョンヤン)と名前が似ていますが、別の場所です。
北魏の太武帝
![征服](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/騎馬-1.png)
北魏の太武帝(在位423~452年)が、五胡十六国を倒して、華北を統一しました。
太武帝は、そのほか
- モンゴルにいた柔然という遊牧民の国と戦いました。
- 道教の国教化をすすめ、道教を大成した寇謙之(こうけんし)という人をとりたてました。
道教とは、諸子百家の道家の思想や、仙人などを信仰する神仙思想などがあわさってできた中国の宗教です。
道教の修業をする人を道士といい、中国を舞台とした物語で不思議な術を使う人として良く登場します。キョンシーとも戦っていました。
北魏の孝文帝
北魏の孝文帝(在位471~499年)はいろいろな政策をすすめました。
- 均田制という土地制度を定めました。成年男性、妻、牛、奴隷に土地をあげる制度です。
- 三長制という村落制度を定めました。家5軒ずつでグループをつくる制度です。
- 漢化政策を行い、自分たち鮮卑が中国文化へ同化しようとしました。
この一環として、都を平城から洛陽に移しました。
しかし漢化政策に対して、軍人たちが不満をもち、反乱を起こしました。
![孝文帝](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/中国皇帝.png)
中華王朝をリスペクト
北朝
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/northern-court.png)
北魏以降の中国北部の王朝を北朝と呼びます。
孝文帝の死後、北魏は東魏と西魏に分裂しました。
その後、東魏と西魏の両国とも支配者が交代し、北斉と北周に変わりました。
この2国のうち北周が勝利します。しかし、北周は隋に乗っ取られました。
この隋が中国を再び統一します。
中国南部(南朝)
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/亡命のイラスト(大陸).png)
匈奴によって滅亡した西晋の一族である司馬睿(しばえい)が317年、中国南部に東晋を建国しました。
東晋のあと中国人により作られた宋→斉→梁→陳という4つの王朝をまとめて南朝といいます。いずれも都は建康でした。
建康は、三国時代の呉の都、建業が名前を変えたものです。現在の南京です。
この場所を都にした呉・東晋・宋・斉・梁・陳の6つの国をまとめて六朝といいます。
589年に南朝の陳が北朝の隋に倒され、南北朝時代は終わります。
南朝の社会については
- 中国人が南下したことで、長江より南の江南地域の開発が進みました。
- 南朝の歴史書には、日本の五人の王である倭の五王が貢ぎ物を持ってきたことが書かれています。
- 地位の高い役職を代々の世襲で独占する門閥貴族があらわれました。有力者たちが九品中正の中正官に取り入って、地位の高い役職にしてもらったためです。
魏晋南北朝の文化
魏晋南北朝時代の文化について解説していきます。
仏教僧
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/誕生仏.png)
仏教は漢の時代に中国に伝わり、魏晋南北朝時代に民衆に広まりました。
五胡十六国時代の有名な仏教僧については
- 仏図澄(ぶっとちょう)は洛陽で布教し、1万人近くの僧を育てました。
- 鳩摩羅什(くまらじゅう)は、長安で仏教の経典の漢訳をたくさん行いました。
また、東晋の法顕はインドのグプタ朝で仏教を勉強し、『仏国記』を著しました。
仏教寺院
主に北魏の時代に、岩をくりぬいて仏教寺院にした石窟寺院が建設されました。
- 敦煌
- 雲崗
- 竜門
などの場所につくられました。
清談
![話し合い](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/話し合い・会議をしている人達のイラスト.png)
魏晋南北朝時代には、諸子百家の老子や荘子がとなえた老荘思想に基づく哲学的な議論である清談がはやりました。
詩
- 「六朝第一の詩人」といわれた東晋の陶潜(陶淵明)
- 山水の美しさを詠んだ南朝の詩人謝霊運
- 南朝の梁の王子の昭明太子が約800の詩や名文を集めた『文選』
- 南朝から唐の時代に四六駢儷体(しろくべんれいたい)という韻をふんだ表現方法が流行りました。
中国北部は異民族が支配したので、漢民族の詩はおもに中国南部でつづいていきました。
芸術
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/掛け軸.png)
- 絵画では、東晋の顧愷之(こがいし)が描いた「女史箴図」
- 書道では、東晋の書家の王羲之(おうぎし)
が有名です。
隋
北魏が2つの国に分裂し、最終的に登場するのが隋です。南朝を征服して中国を統一しましたが、2代で終わった短命な国です。
文帝
隋を建国して581年に初代皇帝に即位した楊堅は文帝ともよばれます。都を大興城に置きました。
大興城は前漢の都の長安とは10kmくらいしか離れていませんでした。秦の都の咸陽ともかなり近いです。
文帝は、まずは北側にいた突厥を攻撃したあと、589年に南朝最後の王朝である陳を征服し、中国を再統一しました。
![楊堅(文帝)](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/中国皇帝.png)
後漢が滅んで300年以上つづいた乱世をおわらせたのはワシ
隋の制度(科挙、均田制、租調庸制、府兵制)
![勉強](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/勉強している動物のイラスト「クマ」.png)
隋は、試験で役人を採用する科挙をはじめました。この制度は清朝末期の20世紀はじめまで続きます。
また、均田制、租調庸制、府兵制の3つの制度が隋の時代に整備され、この後の唐の時代にも引きつがれました。
均田制
![耕す](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/畑・田んぼを耕す人.png)
均田制は北魏の孝文帝の時代に始まった土地制度です。
北魏の時代の均田制は、成年男性、妻、耕牛、奴隷に土地をあげる制度でした。
牛や奴隷をたくさん持っていれば、土地がたくさんもらえるので、裕福な人に有利な制度でした。
しかし、隋の時代には耕牛、妻、奴隷の分がなくなり、成人男性のみに土地が配られるようになりました。土地をもらった男性が亡くなると、土地は国に戻りました。
租調庸制・府兵制
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/重い税金.png)
租調庸制とは税の制度です。租とは穀物、調とは布、庸とは労役のことです。
府兵制とは、北朝の西魏の時代に始まった徴兵制度です。
隋の府兵制では、均田制で土地をあたえた農民のなかから徴兵しました。
煬帝(ようだい)
第2代の煬帝については、
- 悪い皇帝という意味で「煬」帝といわれています。初代の「楊」堅と字が違うので注意。
- 聖徳太子が書いた「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」という手紙を読んで激怒したというエピソードがあります。
- 大運河をつくり、人工的に川と川をつなげました。
- 朝鮮の高句麗へ3回の遠征を行いましたが、全て失敗しました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/聖徳太子.png)
隋の滅亡
![裏切り](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/10/裏切り_s.png)
庶民は大運河の建設や高句麗の遠征にこき使われたため反乱を起こし、煬帝は618年に部下に暗殺されました。
同じ年に、隋の武将であった李淵(高祖)が唐を建国しました。
おわりに
後漢が滅んだあとの魏晋南北朝時代の国を図にまとめました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/Northern-and-Southern-Courts.png)
隋が中国を再び統一しましたが、2代で滅び、唐が建国されました。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。