高校世界史の範囲を中心にした中国の歴史について解説します。今回は2回目、漢の時代について。
秦が陳勝・呉広の乱をへて弱体化したあと、項羽との権力争いに勝った劉邦が漢を建国しました。この漢の国について説明していきます。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
前漢の建国
劉邦は、紀元前202年、漢(前漢)を建国しました。あとからできる後漢(ごかん)と区別して前漢ともいわれます。前漢の都は長安です。
秦の都の咸陽と、前漢の都の長安は、どちらも今の西安にあります。(お城が10kmくらい離れているので一応違う場所ですが、ほぼ同じとこです)
建国者の劉邦は、高祖ともいわれます。高祖は、中国北方にいた匈奴のリーダー冒頓単于(ぼくとつぜんう)に負けちゃった話も有名です。
![劉邦](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/中国皇帝.png)
うう、匈奴に負けたの、無かったことにしたい
漢の郡国制
高祖は統治制度に郡国制を採用しました。
郡国制は
- 直轄地は、中央からきた役人が統治する秦の郡県制
- それ以外の地域は諸侯に統治を任せる周の封建制
をおこなう、2つの制度のミックスです。
![劉邦](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/中国皇帝.png)
秦の制度だけだと、国が短命になりそうだったのでミックスにしました
呉楚七国の乱
前漢の第6代皇帝・景帝は、諸侯の力をそぐため、彼らの領土を減らそうとしました。
怒った七人の諸侯が紀元前154年に呉楚七国の乱を起こしました。
反乱は鎮圧され、最初の計画通り諸侯の力をそぐことに成功しました。
前漢・武帝の時代
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/酒屋.png)
景帝の息子の武帝の時代に、前漢は全盛期になります。
武帝は
- 実質的には郡国制から全土を直轄地にする郡県制に移行しました。
- 役人を採用するため、地方長官がその土地の優秀な者を中央に推薦する郷挙里選という制度をつくりました。
- 塩・鉄・酒を国だけが販売できる専売品にして、国が利益を独占しました。
- 物価の調整と安定のために均輸と平準という政策を行いました。
- 新しい貨幣である五銖銭(ごしゅせん)をつくりました。
均輸とは地方の生産物を国が回収して、その物資が不足している地域へもっていく政策です。
平準とは、物資が多くて物価が下がっているときは国が買い上げて、物資が足りないときは国がストックしていたものを放出して、物価を調節する政策です。
![武帝](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/始皇帝-150x150.png)
お金のことと人材採用のことを新しくしたぞ!
ほかにもさまざまな政策を行いました。
儒学を尊重
皇帝に従順な役人をふやすため、目上の人への礼儀を重視する儒学を重要視しました。
武帝は儒学者の董仲舒(とうちゅうじょ)のアドバイスをきき、儒学を官学にしました。
(官学とは、時の政権が公認して、役人などに勉強させる学問のことです。)
さらに『易経』、『書経』、『詩経』、『春秋』、『礼記』という書物を儒学の重要な五つの教典である五経と定めました。
![武帝](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/始皇帝-150x150.png)
儒学って、権力者側にとってウレシイ考え方なのよ
対外遠征
紀元前139年、武帝は張騫(ちょうけん)という人を大月氏という国に派遣しました。
大月氏と同盟を結んで遊牧民族の匈奴をいっしょに攻撃するためです。
張騫は大月氏に同盟を断られてガッカリしながら帰国しました。しかし彼が旅の途中で得た西域の情報は非常に貴重なものになりました。
![張騫](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/手を合わせて謝っている人-150x150.png)
皇帝陛下、申し訳ございません
![武帝](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/始皇帝-150x150.png)
旅の話がおもしろいから許す!
西域とは、中国の国境より西の中央アジアのエリアを指します。
その他、武帝は
- 紀元前129年、劉邦を負かした匈奴を討伐しました。
- 紀元前111年には、ベトナム北部にあった南越という国を征服して、日南郡を設置しました。
- 紀元前108年には衛満という人が朝鮮に建国した衛氏朝鮮を征服し、楽浪郡などの朝鮮4郡を設置しました。
![武帝](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/始皇帝-150x150.png)
領土を広げるのもがんばった!
新
武帝の死後は、前漢では、豪族や宦官、外戚が権力をもつようになりました。
- 地方の実力者である豪族は、郷挙里選で推薦してもらって官僚職を独占しました。
- 皇帝の世話をする宦官は、皇帝に気に入られ、政治に口出ししました。
- 皇帝の奥さんの一族である外戚も、皇帝に口出ししました。
外戚の王莽(おうもう)はクーデタを起こして前漢を滅ぼし、新という王朝をつくりました。都は前漢とおなじく長安です。王莽は周の時代の政治を理想とし、時代遅れな政治を行いました。
![民衆](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/08/驚いている男性-150x150.png)
周って・・・1000年くらい前じゃん!
そのため赤眉の乱で農民や豪族が各地で挙兵し、新は15年足らずで滅亡しました。(紀元8~23年)
王莽の莽は「くさかんむり+犬+弁という字の下半分」というふうな字です。
「くさかんむり+犬+くさかんむり」でも、読めないことはないと思います。
後漢
新が滅亡し、西暦25年に後漢がたてられます。都は洛陽です。建国したのは劉秀(光武帝)といい、前漢の皇帝・景帝の末裔です。
外国との交流
- 後漢はイランのパルティア(安息)や、インドのクシャーナ朝と交易をしました。
(前漢・後漢とパルティアの存続した時期は、だいたい同じです。) - 日本との交流もあり、後漢の光武帝は日本に「漢委奴国王」と刻まれた金印を授けました。
- 97年、後漢につかえていた班超は、部下を大秦(ローマ帝国)に派遣しました。これは失敗しましたが、大秦からは、大秦王安敦の使者が、武帝がベトナムにおいた日南郡に到着しました。
「大秦王安敦」とは五賢帝最後の皇帝のマルクス=アウレリウス=アントニヌス帝です。
後漢の衰退
2世紀後半になると、後漢の終わりが見えてきます。
党錮の禁
166年と169年に党錮の禁と呼ばれる事件が起きました。
宦官が、自分たちにとってジャマな官僚たちを処罰した事件です。
黄巾の乱
184年には黄巾の乱という大規模な農民反乱が起きます。反乱のリーダーは、太平道という宗教の教祖である張角です。
この反乱は鎮圧されますが、鎮圧に協力した豪族たちは、各地で好き勝手するようになり、中国は三国志で有名な群雄割拠の時代にはいります。
最終的に後漢は220年に魏の曹丕に王位をゆずって終わりをむかえました。
漢の文化
漢の時代の儒学・歴史学・紙の発明について説明します。
訓詁学
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/ゴーストライター.png)
後漢の時代には、儒学の一派であり、儒教の経典を解釈する訓詁学ができました。鄭玄(じょうげん)という人が訓詁学をめっちゃ研究して、この学問を大成しました。
製紙法
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/巻物.png)
後漢の時代、製紙法が改良され、紙が普及しました。
それまでは紙の代わりに木簡や竹簡(木や竹を薄くスライスしたもの)が使われていました。
歴史書
- 司馬遷は、前漢の武帝時代の歴史家で、古代中国から武帝までの歴史をまとめた『史記』を著しました。
- 班固は、後漢の歴史家で、前漢の歴史をまとめた『漢書』を著しました。
『史記』も『漢書』も紀伝体で書かれています。紀伝体とは皇帝など、人について書く方法で、中国の歴史書に多いまとめ方です。
また、これとは別に、年表形式で歴史をまとめる書き方を編年体といいます。
中国の歴史クイズ(古代~漢まで)
おわりに
劉邦が前漢をつくり、武帝の時代に最盛期となります。
途中、外戚が新を建国しましたが、すぐに滅び、後漢が再建されました。
後漢は外国との交易や交流で栄えますが、衰退して三国時代がはじまります。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。