中国の歴史について解説しているシリーズ記事です。今回は4回目と5回目の間の4.5回目です。
前回は7~10世紀の唐の時代についてでした。
今回は唐がほろびたあとに戦乱となった五代十国時代と、古代~中世にかけての周辺国(朝鮮半島や日本・チベット)の歴史についてまとめています。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
五代十国
907年に唐王朝がおわり、唐をたおした朱全忠は後梁をたてました。しかし後梁はすぐ滅び、次の国もすぐに滅びました。こうして約70年のあいだに五つの短命な王朝が現れ、消えていきました。同時に、これらの王朝のまわりには、十個の小さな国が栄えました。
この時代を五代十国時代と呼びます。300年ぶり3回目の乱世です。
五代
唐の後に栄えた5つの王朝、五代は順番に後梁→後唐→後晋→後漢→後周です。どの国も10~20年くらいしか続きませんでした。
また、後晋は建国するときに、異民族の契丹に助けを求め、その見返りとして燕雲十六州という地域をあたえました。この地域には万里の長城の内側も含まれていたため、異民族から国を守る長城の内側に異民族がいるという危険な状態になりました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/万里の長城.png)
五代十国の混乱を終結させ、趙匡胤(ちょうきょういん)という人が中国を統一し、960年に北宋を建国しました。
中国のまわりの国の歴史
このへんで、古代から中世までの、中国の周辺国についてまとめておきます。
古代から中世までといってますが、ざっくりした時代わけとなっています。
東南アジアの国や中央アジアについては、別の記事になります。
古代~中世の朝鮮
朝鮮(1)三国時代~新羅の朝鮮統一
4世紀以降の朝鮮半島の歴史についてです。
4~7世紀の朝鮮は高句麗・新羅・百済という3つの大国が覇権を争った時代で、三国時代といわれています。それ以外にも、加羅(加耶・任那)という小さい国々が存在していました。
隋の煬帝は、高句麗へ3回遠征しましたが、全て失敗しました。
この3つの国の中で、新羅は唐と手を組み、白村江の戦いで百済と日本の連合軍に勝利しました。
唐と協力した新羅は、ついに676年に朝鮮半島を統一しました。
- 新羅の都は金城(慶州)で、仏国寺などの仏教寺院がありました。
- 新羅には骨品制という身分制度がありました。
また、朝鮮半島北部~中国あたりの場所で、大祚栄(だいそえい)という人が7世紀末に渤海という国を建国しました。もともと高句麗にいた人たちが中心となった国で、都は上京竜泉府といいます。
その後新羅に変わって936年に高麗が朝鮮半島を統一しました。
朝鮮(2)高麗
高麗(918~1392)の建国者は王建といい、都は開城です。
高麗では高麗青磁という磁器や、世界最初の金属活字、高麗版大蔵経(こうらいはんだいぞうきょう)が作られました。
高麗版大蔵経とは、仏教の「大蔵経」というお経を印刷するために高麗で作った版木のことです。8万枚以上の版木が現存しています。
高麗は13世紀にモンゴルの属国となりました。
古代~中世の日本
弥生時代以降の日本の歴史を説明します。
弥生時代の終わりごろに日本のどこかにあった邪馬台国の女王卑弥呼は、三国時代の魏に朝貢したことが『魏志』倭人伝という記録に残っています。
朝貢とは、当時の大国である中国の子分にしてもらうため、周辺の国が中国に貢ぎ物を送ることです。
卑弥呼は、239年に魏の皇帝から「親魏倭王」という称号をもらいました。
![法隆寺](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/法隆寺.png)
4世紀から7世紀半ば頃までの日本は、ヤマト(大和)王権(ヤマト政権・大和朝廷)が支配していました。
ヤマト王権とは、大和(奈良県)を中心とする豪族たちの連合政権です。大王(おおきみ。いまの天皇)が盟主となっていました。
日本から「倭の五王」と呼ばれる五人の天皇が、5世紀に南北朝時代の中国の南朝に貢ぎ物を持ってきたことが書物に残っています。倭とは、日本の古い名前です。
6世紀末ごろまでの日本では、有力者の墓として古墳がつくられていました。
593~710年は、飛鳥というところに都があったので飛鳥時代とよばれています。聖徳太子はこの時代の人です。隋の煬帝に手紙をおくったことが知られています。
600~894年まで、日本は隋に遣隋使を、唐に遣唐使を派遣していました。
645年には、皇族の中大兄皇子たちが、権力をにぎっていた豪族の蘇我氏をたおし、大化の改新という改革をはじめました。
この改革によって、豪族たちが権力をにぎる時代から、天皇と貴族が法律にもとづいて政治をおこなう律令国家の時代にかわっていきました。
この律令国家体制は、唐をお手本にしてつくられました。
710年には、唐の長安をまねた平城京が今の奈良市につくられました。
平城京ができてから、794年に桓武天皇が京都の平安京に都を移すまでの期間を奈良時代(平城時代・天平時代)とよび、奈良時代の文化を天平文化といいます。
チベットの吐蕃
7世紀初め、チベットで吐蕃を建国したソンツェン=ガンポは、チベット文字を作らせました。
また、大乗仏教の一つであるチベット仏教が発展し、吐蕃の国教になりました。
おわりに
以上、唐と宋のあいだの五代十国時代と、周辺国(朝鮮半島、日本、チベット)についてでした。
次回は宋についてです。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。