【中世ヨーロッパ】封建制度、荘園、教皇権の衰退について解説

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中世ヨーロッパの歴史

高校世界史で扱われる中世ヨーロッパの歴史について、数回に分けて説明していきます。

今回は7回目です。

十字軍が失敗に終わった後、ヨーロッパでは封建制度や荘園、領主、騎士、そしてカトリック教会教皇の権力が衰退していきました。

この時代のようすについて説明していきます。

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十字軍の失敗

十字軍の失敗はヨーロッパの社会に大きな影響を与えました。十字軍遠征に多くの貴族や騎士が参加したため、遠征費用で大金を使い、領地の管理もおろそかになりました。遠征失敗によって新しい土地は手に入らなかったため、多くの貴族が没落しました。

また、十字軍遠征中に留守を預かった農民や商人たちが、その間に独自の経済活動や自治体を形成し始めました。これにより、封建制度の基盤である領主と農民の関係が変化し、領主の権力が弱まりました。この時代には、新興の商工業都市や市民階級が台頭し、都市の自治や商業的自由が拡大しました。

さらに、教会の権威も揺らぎ始めました。十字軍の失敗、さらには聖職者の腐敗などが明らかになり、教会の権威と信頼が低下しました。

このような状況の中で、ヨーロッパの社会は大きな変革を迎えることになります。

お金の力による農奴解放

貨幣経済の普及

14世紀以降、ヨーロッパでは、農業技術の進歩により収穫量が増え、余った作物を売ってお金にかえることが一般的になりました。これにより貨幣経済が普及しました。

かつて農民は、領主に支払う地代(土地のレンタル代)を作物で支払っていましたが、後にこれがお金で支払われるようになりました。このお金で支払う地代を貨幣地代と呼びます。

また、農奴たちがお金を払って領主の支配から自由になったことを農奴解放といいます。自由になった農民は自営農民と呼ばれ、とくにイギリスの自営農民を独立自営農民(ヨーマン)と呼ばれました。

お金のある農民
お金のある農民

お金を払うから自由をくれ!

農民反乱

帽子、ペストマスク、杖などが特徴的なペスト医師

14世紀半ば、ヨーロッパで黒死病ペスト)がはやり、多くの人々が命を落としました。

ペストで減ってしまった農民たちが出ていかないよう、領主たちは土地代や税金を減額するなど、農民への待遇をよくしました。

しかし収入が減って困った領主の一部は、「やっぱり元に戻そう」といって権利を再び強くしようとしました。

これに対し、農民たちは反発し、ヨーロッパ各地で農民一揆という反乱が起きました。主要なのは

  • 1358年、フランスのジャックリーの乱
  • 1381年、イギリスのワット=タイラーの乱 です。

ワット=タイラーの乱の思想的な指導者だったジョン=ボールの「アダムが耕しイブが紡いだとき、だれが領主だったか」という言葉がよく知られています。

この言葉は、人はもともと平等だった、という意味であり、貴族や他の階級の不平等を批判したものです。

農民「待遇もどすの反対!」

王権の強化

十字軍遠征に多くの貴族や騎士が参加し、そのために領地の管理がおろそかになり、経済的な負担も重くなりました。失敗によって多くの貴族が没落し、領地の所有権や権力が変動しました。

その後、ヨーロッパで鉄砲が発明されると、戦争は銃を持った歩兵や大砲が中心になり、従来の馬に乗って剣で戦う騎士の存在意義が薄れていきました。

こうした状況により、没落した領主や騎士たちは国王に仕えるようになりました。

こうして国王の権力が上昇し、16~18世紀、国王が絶対的な権力を握る絶対王政の時代がやってきました。国王は貴族や領主たちの上に立ち、中央集権的な政府をつくり、国家の統一と強化に努めました。

教皇権の衰退

十字軍の失敗、さらには聖職者の腐敗などが明らかになり、教会の権威と信頼が低下しました。

14世紀には教皇権の衰退を象徴する

  • アナーニ事件
  • 教皇のバビロン捕囚
  • 教会大分裂(大シスマ)

などが起こりました。

教皇を幽閉したアナーニ事件

フランス王、カペー朝フィリップ4世は、没落した諸侯や騎士を助けるために、身分制議会である三部会を開き、「聖職者にも税をかけよう!」と決めました。

いっぽう、当時のローマ教皇ボニファティウス8世はこの課税に猛反対しました。

こうした対立の中、フィリップ4世は、1303年、ローマ郊外のアナーニという町で教皇ボニファティウス8世を捕まえて幽閉しました。この出来事をアナーニ事件といいます。

教皇ボニファティウス8世は憤死(=憤慨のあまり死ぬこと)したといわれています

教皇のバビロン捕囚

さらにフィリップ4世は、ローマにあった教皇庁を南フランスのアヴィニョンに強制移転させさせました。1309〜77年の間、教皇庁はアヴィニョンに置かれ、フィリップ4世の監視下に置かれました。これを「教皇のバビロン捕囚」といいます。

教会大分裂(大シスマ)

3つに分かれました

教皇庁がアヴィニョンに移動するとローマとピサでも教皇を名乗る人が登場し、3人の教皇が権力をめぐる争いをはじめました。これを教会大分裂(大シスマ)といい、1378年〜1417年まで続きました。

コンスタンツ公会議

ウィクリフフスは、教皇や聖職者を厳しく批判しました。

また、ラテン語で書かれていた聖書を

  • ウィクリフは英語に
  • フスはチェコ語に

翻訳し、聖書を普及させようとしました。


1414年~1418年にはコンスタンツ公会議が開かれ、教皇庁はローマに戻り、教会大分裂は終わりました。

同時にこの会議でウィクリフの主張は異端とされ、フス異端として火あぶりにされました。

フスの火刑がきっかけで、ベーメン(現在のチェコのボヘミア)でフス戦争が起きました。(1419~1436年)

この戦争は、教皇や皇帝に対する反乱であり、教会大分裂が約40年にわたって続いたあいだに、教皇の権威がさらに落ちていく一因となりました。

おわりに

十字軍の終了後、貨幣が普及し、荘園から自由になる自営農民が生まれました。領主が時代に逆行して農民を支配しようとしたため、ジャックリーの乱ワット=タイラーの乱などの農民一揆が起きました。

また教皇の力が弱くなり、

  • フィリップ4世が教皇ボニファティウス8世を幽閉したアナーニ事件
  • 教皇庁をアヴィニョンに強制移転させた教皇のバビロン捕囚
  • 3人の教皇が権力争いをした教会大分裂(大シスマ)
  • 教会大分裂(大シスマ)を終わらせ、フスを火刑にしたコンスタンツ公会議
  • フスの火刑がきっかけで起きたフス戦争

などが起こりました。

次回は中世ヨーロッパの文化(12世紀の文化とルネサンス)についてです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。

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