この記事では、高校世界史の範囲を中心にした古代ギリシャの歴史について数回に分けて解説していきます。今回が1回目です。
ギリシアの最古の文明はエーゲ文明です。前半のクレタ文明と後半のミケーネ文明に分けられます。
エーゲ文明の滅亡後、暗黒時代を経て、ギリシア人は集住(シノイキスモス)し、アテネ、スパルタなどのポリスをつくりました。
・この記事は高校世界史の参考書「世界史用語集」などを参考にしています。
頻度4以上(赤文字で記載)の用語はなるべく入れています。
エーゲ文明前半・クレタ文明
ギリシアの最古の文明はエーゲ文明という青銅器文明です。その中でも前半はクレタ文明、後半はミケーネ文明が栄えました。
クレタ文明は、前2000~前1400年ごろ、地中海にあるクレタ島を中心に栄えました。
とくにクレタ島のクノッソスにある宮殿の遺跡が有名です。ここはイギリス人のエヴァンズによって発掘されました。
宮殿の遺跡には城壁がなかったので、外の国と戦争をさける平和的な文明だったのでは?と考えられています。
エーゲ文明後半・ミケーネ文明
次のミケーネ文明は前1600~前1200年ごろに栄えました。代表的な遺跡に、ミケーネやティリンスがあります。
ミケーネ文明では線文字Bという文字が使われていました。これはイギリスのヴェントリスによって解読されました。
ひとつ前のクレタ文明では線文字Aが使われていましたが、こちらは解読されていません。
ミケーネ文明と同じ時代、小アジア(今のトルコのあたり)にトロイア(トロヤ)という国がありました。ドイツ人のシュリーマンは、ミケーネやトロイアの遺跡を発掘したことで有名です。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/トロイの木馬.png)
ミケーネ文明はギリシア人の一派のドーリア人か「海の民」によって滅亡したとみられています。
ミケーネ文明滅亡後の400年間は、史料が少なくてどんな時代だったのかよくわからないため、暗黒時代と呼ばれています。
ポリス
紀元前800年ごろから、ギリシア人は有力者を中心に集まって生活するようになりました。
これを集住(シノイキスモス)といい、そうしてできた都市国家をポリスといいます。
代表的なポリスはアテネ、スパルタです。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/パルテノン神殿.png)
ポリスの特徴的な施設に
- 神殿が建っている、ポリスの中心部にある丘(山):アクロポリス(丘)
- 市場や集会、裁判などが行われた場所:アゴラ(広場)
があります。
当時のギリシア人の特徴としては
- 自分たちギリシア人のことをヘレネス、異民族のことをバルバロイと呼んでいました。
- ポリスにとって重要なことを決めるとき、神様に意見を聞くデルフォイの神託を行っていました。
- 4年に1度、男性だけで行うオリンピアの祭典を行いました。
また、ギリシア人は外の地域に植民市という町をつくりました。
- マッサリア(今のフランスのマルセイユ)
- ネアポリス(今のイタリアのナポリ)
- ビザンティウム(今のトルコのイスタンブール)
などが代表的な植民市です。
ビザンティウムは、ビザンティオン(ビザンティウム)→コンスタンティノープル→イスタンブールというふうに、何回も名前が変わった町です。
ギリシア人の分類
ギリシア人は、北のほうから今のギリシアに移住した人たちです。さらに、移住の時期や場所、使っている方言によって
- ミケーネ文明をつくったアカイア人
- 小アジアに住んだアイオリス人
- 小アジアやバルカン半島に住んだイオニア人
- スパルタなどを作ったドーリア人
などにわけられます。
つぎは、代表的なポリスであるスパルタとアテネについて解説します。
スパルタ
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/同世代カーストのイラスト(男性).png)
スパルタでは、支配者階級である少数のドーリア人が、下の身分であるペリオイコイ、ヘイロータイ(へロット)という人たちを支配していました。
支配者階級は、ひとりでたくさんの人を支配しないといけないので、ものすごい強さが求められました。
そこでリュクルゴスというリーダーが厳しい制度をつくり、支配者階級に小さいころから厳しい筋トレや教育を受けさせました。
スパルタの教育制度は、厳しい教育をさす「スパルタ教育」の語源になっています。
アテネ
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/重装歩兵.png)
古代ギリシアのもう一つの代表的なポリス、アテネでは、前8世紀頃からポリスの有力者による貴族政治が行われていました。
最初は貴族だけが政治や国の防衛を行っていました。
しかし、お金持ちになった平民(富裕市民)たちが、自腹で装備を買って重装歩兵になり、国の防衛に参加するようになりました。
富裕市民は「防衛に参加してるんだから、政治にも参加させろ」と主張するようになります。
![ファランクス](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/ファランクス.png)
重装歩兵たちが行った、みんなで固まって進む戦い方を、ファランクス(密集隊形)といいます。こんなイラストもある、いらすとや様は最強ですね。
この時代のアテネの政治関係で有名なのが、ドラコン、ソロン、ペイシストラトス、クレイステネスです。
ドラコンの改革
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/「法」と書かれた本-1-150x150.png)
紀元前621年頃からドラコンがドラコンの改革(またはドラコンの立法)を行いました。
ドラコンは、なんとなく当たり前になってたルールである慣習法を、成文化して、貴族が都合よく法律を変えるのを防ぎました。
コロコロ言うことが変わりがちな口約束を、ちゃんと書面にするような感じです。
ソロンの改革
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/金貨.png)
紀元前594年頃からは、ソロンが改革を行いました。
ソロンの改革の内容は
- 財産の額に応じて市民の政治参加を認める、財産政治を実施しました。
- 負債(借金)を帳消しにしました。
- 借金を返せなくなった人が債務奴隷になることを禁止しました。
などです。
古代のギリシアやローマでは、人間が物のように扱われる奴隷制度が存在しました。戦争で捕虜になったり、借金が返せなくなった人などが奴隷になりました。なかでも個人の持ち物となり、家事や農業をさせられた奴隷は家内奴隷といいます。
ペイシストラトスの僭主政治
紀元前561年頃にはペイシストラトスの僭主政治(せんしゅせいじ)が行われました。僭主とは独裁者のことです。
非合法に政権をとった独裁者ですが、一般市民に喜ばれる政治を行いました。しかし、あとを継いだ息子は暴君だったので、アテネから追放されました。
クレイステネスの改革
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/投票箱.png)
紀元前508年頃にクレイステネスがアテネで改革を行いました。
クレイステネスは、
- 血縁による4部族制を廃止し、デーモス(区)という地域による10部族制に変えました。
- 陶片追放(オストラシズム)という制度をつくりました。
陶片追放とは、オストラコン(陶器の破片)に独裁者になりそうな人の名前を書いて投票し、票が多かった人を追放する、という制度でした。
このあと、アテネはアケメネス朝ペルシアとのペルシア戦争を開始します。
ペルシア戦争
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/戦う棒人間.png)
ペルシア戦争は50年近く続いた、ギリシャのポリスたちとアケメネス朝ペルシアとの戦争です。
ギリシア人の植民市であるミレトスなどが、アケメネス朝ペルシアのダレイオス1世に対して「イオニア植民市の反乱」を起こしました。これをきっかけにペルシアとギリシャは戦争になりました。
主な戦いは
- 紀元前490年のマラトンの戦い。ペルシアのダレイオス1世にアテネが勝ちました。
- 紀元前480年のサラミスの海戦。アテネの将軍テミストクレスがペルシア艦隊に勝ちました。
この戦いで、アテネの無産市民が三段櫂船(さんだんかいせん)の漕ぎ手として活躍したので、アテネではお金持ちでないふつうの市民たちの政治発言力が上がりました。 - 紀元前479年のプラタイアの戦い。アテネとスパルタの連合軍がペルシアに勝ちました。
無産市民とは、自分で武器を買えない、お金があまりない人たちです。三段櫂船をこぐことで、武器がなくても戦争の役に立てるようになったので「自分たちも政治に参加させろ!」と主張するようになりました。
マラトン・サラミス・プラタイアの戦いをへて、ペルシア戦争は、ギリシア勢力の勝ちで終わりました。
ペリクレス
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/真剣な会議.png)
アテネでは、ペルシア戦争後に活躍したペリクレスというリーダーの時代に、男性みんなが政治に参加できるようになったため「民主政治が完成した」といわれてます。
18歳以上の成人男性の全員が民会という会議にいって、意見を話し合いました。全員で大事なことをはなしあって決める、というシステムを直接民主政といいます。
ちなみにペリクレスと似た名前に「ヘラクレス」がありますが、ヘラクレスはギリシャ神話にでてくる英雄です。間違えないように注意~。
また、ソロンの改革の時代からはじまった陪審員の制度が、ペリクレスの時代に完成しました。陪審員は、市民から選ばれて、裁判の判決をくだす人です。
ペロポネソス戦争
アテネは、ペルシアの攻撃に備えるため、前478年にデロス同盟を結成しました。
アテネ中心のデロス同盟に反発したポリスは、スパルタを中心にペロポネソス同盟を結成しました。
この2つの同盟が前431年からのペロポネソス戦争で戦いました。
![](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/大勢と大勢の戦いのイラスト(棒人間).png)
この戦争の最中、指導者ペリクレスが病死したため、アテネでは弱体化しました。この流れでスパルタがペロポネソス戦争に勝利しました。
覇権をにぎったスパルタですが、この後テーベに負け、衰退しました。
ここで登場するテーベは、エジプトのテーベとは別の都市です。
このあと、マケドニアという国がギリシアを支配します。
おわりに
アテネでは民主主義が進み、アケメネス朝ペルシアとのペルシア戦争に勝ち、デロス同盟を作ってノリノリでした。
しかしペロポネソス戦争に負け、ギリシアの覇権はスパルタ、その後テーベに移りました。
このあとは、ギリシアをまとめたマケドニアという国のお話です。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。