イスラム教が生まれた中東と、その後イスラム教の国ができたアフリカ、アジアの地域を「イスラム世界」として、その歴史を高校世界史の範囲をメインに解説します。
今回は7回目です。
今回は第二次世界大戦以降のイスラム圏の国についてまとめました。
いろんな国が登場するので、簡単な年表をあげておきます。
- 1948年:第1次中東戦争(パレスチナ戦争)/イスラエルvsアラブ諸国連盟
- 1951年:イラン(パフレヴィー朝)の首相モサデグが石油の国有化政策をおこなう
- 1956年:第2次中東戦争(スエズ戦争)/イギリス・フランス・イスラエルvsエジプト
- 1967年:第3次中東戦争/イスラエルvsエジプト、シリア、ヨルダン
- 1973年:第4次中東戦争/イスラエルvsエジプト、シリア。この影響で第1次石油危機が起きる
- 1979年:エジプト=イスラエル平和条約
- 1979年:イラン革命。その影響で第2次石油危機とイラン=イラク戦争(1980~)が起きる
- 1990年:湾岸戦争
- 1993年:パレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)
パレスチナ分割とパレスチナ戦争(第1次中東戦争)
第一次世界大戦後から第二次世界大戦後まで、地中海の東岸にあるパレスチナはイギリスが委任統治をおこなっていました。
国際連盟が領土を預かり、イギリスに統治をまかせていた状態です。
イギリスの統治が終わったあと、パレスチナをどうしたらいいか、国際連合は考えました。
委任統治の時代から、パレスチナでは、移住したユダヤ人と、もともと住んでいたアラブ人が対立していました。
この対立を解決するため国際連合は「パレスチナを半分半分に分け、アラブ人とユダヤ人それぞれに分配する」というパレスチナ分割案をだし、総会で賛成されました。
![不満](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/07/ほっぺを膨らませて怒る子供のイラスト(男の子)_1.png)
ユダヤ人はアラブ人よりかなり人数がすくないのに、パレスチナの半分の土地がもらえたので満足でした。逆にアラブ人は不満でした。
ユダヤ人は分割案に納得してパレスチナにイスラエルを建国しました。
パレスチナ戦争(第1次中東戦争)
アラブ諸国連盟(アラブ連盟)の加盟国はイスラエルの建国に反発しました。
アラブ諸国連盟(アラブ連盟)は、1945年(昭和20年)に、エジプト王国を中心とするアラブ諸国が結成したグループです。
1948年にイスラエルvsアラブ諸国連盟のパレスチナ戦争(第1次中東戦争)が勃発しました。
イスラエルをアメリカが支援したこともあり、この戦争はイスラエルが勝利しました。
この戦争で、パレスチナに住んでいた多くのアラブ人が故郷を追われ、パレスチナ難民となりました。
また、戦争に負けたエジプトでは政府への批判が高まり、エジプト革命が起きることになります。
イランの石油国有化
1951年(昭和26年)にイラン(パフレヴィー朝)の首相となったモサデグは石油の国有化政策をおこないました。モサデグは「自国の資源は自国で管理・開発するべき」という「資源ナショナリズム」の考え方をもっていました。
しかしイランの油田を支配して利益を得ていた英・米がモサデグに反発しました。最終的にモサデグは英米が支援した国王派のクーデタで失脚しました。
モサデグの失脚後は、国王パフレヴィー2世が英米の支援のもと、国王主導の近代化を進めました。しかし急激で強引な改革を行ったため国内は混乱し、貧富の差が広がりました。
バグダード条約機構と中央条約機構
![軍事同盟](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/軍事同盟.png)
1955年(昭和30年)、トルコ・イラク・イギリス・パキスタン・イランが反共・軍事組織のバグダード条約機構(中東条約機構・METO・メトー)を結成しました。
1959年(昭和34年)にイラクが脱退したことで中央条約機構(CENTO・セントー)と改称されましたが、1979年(昭和54年)に消滅しました。
エジプト革命
1952年(昭和27年)、改革派グループがエジプト革命を起こし、エジプト王国の国王を追放しました。エジプトはエジプト共和国となり、国王のいない共和政が始まりました。
改革派グループの中心だったナセルが1956年(昭和31年)にエジプトの大統領になりました。
ナセルは
- アラブ民族の統一と自立をすすめるアラブ民族主義
- 当時の二大大国であるアメリカ、ソ連のどちらの陣営にも入らないという非同盟主義
などをかかげ、第三世界(アフリカ・アジア・南米の発展途上国)のリーダーになろうとしました。
アラブ民族主義と似てるけど違うものに19世紀の思想家アフガーニーがとなえたパン=イスラーム主義があります。こちらは、ムスリム(イスラーム教徒)が民族や宗派を越えて団結するべきだと主張したものです。
第2次中東戦争
![トラブル](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/トラブル.png)
ナセル大統領は近代化改革の一環として、ナイル川上流にアスワン=ハイダムというダムをつくろうとしました。
ナセルはアメリカなどにダム建設のお金を借りるつもりでしたが、ナセルがアメリカ陣営にはいらなかったこともあり、断られてしまいました。
そこでナセルは1956年(昭和31年)、資金調達のためスエズ運河の国有化を宣言しました。
この年、イギリスはスエズ運河の国有化に反対して、フランス・イスラエルを誘ってエジプトへ侵攻しました。これがスエズ戦争(第2次中東戦争)です。
戦況ではエジプトは不利でしたが、国際世論がエジプトを支持したことで、戦争は停戦しました。イギリス・フランス・イスラエルは撤退し、ナセルは、スエズ運河の国有化に成功しました。
パレスチナ解放機構(PLO)
第2次中東戦争後の1964年(昭和39年)にパレスチナ解放機構(PLO)という武装組織が結成されました。PLOはアラファト議長を中心に、イスラエルに支配されるパレスチナのアラブ人の解放を目指しました。
第3次中東戦争
![戦闘機](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/編隊で飛ぶ戦闘機.png)
1967年(昭和42年)、イスラエルがエジプト、シリア、ヨルダンに奇襲をしかけ第3次中東戦争(6日戦争)がはじまりました。イスラエルはこの戦争に勝ち、シナイ半島・ガザ地区・ゴラン高原・ヨルダン川西岸などを軍事占領しました。
アラブ石油輸出国機構(OAPEC)と石油輸出国機構(OPEC)
![協力](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/協力しあう人達.png)
1960年代に産油国(石油を産出している国)が協力しあう組織がつくられました。
- 1960年(昭和35年)、世界の産油国による石油輸出国機構(OPEC)
- 1968年(昭和43年)、OPECの中からアラブ諸国の産油国によるアラブ石油輸出国機構(OAPEC・オアペック)
が結成されました。
第4次中東戦争と第1次石油危機(オイル=ショック)
1973年(昭和48年)には、第3次中東戦争(6日戦争)で奪われた土地をとりもどすため、エジプトとシリアがイスラエルに第4次中東戦争をしかけました。
アラブ諸国はエジプトとシリアに味方し、イスラエルや支援する国々に嫌がらせをはじめました。
アラブ石油輸出国機構(OAPEC)はイスラエルを支援する国々、つまり欧米や日本への石油輸出を停止し、石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を値上げしました。
こうした原油の値上げや輸出中止を石油戦略といいます。
こうしたアラブ諸国の石油戦略によって、欧米や日本は大きな経済的打撃を受けました。これを第1次石油危機(オイル=ショック)と呼びます。
しかし結局、第4次中東戦争はイスラエルの勝利に終わりました。
エジプト=イスラエル平和条約
ナセルの死後エジプト大統領に就任したサダトは、第4次中東戦争が終わった後、外交方針を大きく転換し、アメリカと親密になったり、何度も戦ったイスラエルとの和平を目指すようになりました。
1979年(昭和54年)3月、アメリカのカーター大統領の仲介で、サダトはイスラエルとエジプト=イスラエル平和条約を締結しました。
この条約によって両国は和平を結び、イスラエルはシナイ半島を返還しました。
他のアラブ諸国はエジプトを裏切り者と批判して、エジプトは孤立しました。
エジプト国内でも批判が起き、1981年(昭和56年)、サダトは暗殺されてしまいました。
エジプトとは平和条約を結んだパレスチナでしたが、依然としてアラブ人への弾圧をつづけました。
パレスチナ暫定自治協定
![握手](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/握手_s.png)
パレスチナ人(=パレスチナに住むアラブ人)たちは、イスラエルに弾圧されていました。
そこで彼らは、イスラエル軍にデモや投石を行うインティファーダという抵抗運動を行いました。投石を行うパレスチナの民衆にイスラエル軍が銃撃する映像が流れ、国際世論はパレスチナ寄りになります。
そして1993年(平成5年)、イスラエルの首相ラビンと、PLO(パレスチナ解放機構)議長のアラファトが、アメリカのクリントン大統領の仲介で、お互いの共存をめざすパレスチナ暫定自治協定(オスロ合意)を結びました。
協定によって1994年(平成6年)にパレスチナのガザ地区でパレスチナ暫定自治政府が成立し、パレスチナ人による自治が行われました。
しかし翌年、イスラエルとPLOの歩み寄りに反対したユダヤ教徒の青年に、イスラエルの首相ラビンが暗殺されました。この事件以降、イスラエルは和平に対し消極的になり、パレスチナ問題は今も未解決となっています。
![銃撃](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/銃撃.png)
イラン革命
時代は少しさかのぼります。
イラン(パフレヴィー朝)のパフレヴィー2世が急激な近代化改革をしましたが、国民の生活はよくなりませんでした。1979年(昭和54年)にイラン革命が起き、パフレヴィー2世は亡命し、パフレヴィー朝は倒れました。革命勢力はイラン=イスラーム共和国を樹立しました。
革命を指導したイスラーム教シーア派の指導者ホメイニは、イスラーム原理主義を掲げました。
イスラーム原理主義
イスラーム原理主義とは、政教分離を否定し、イスラム教に基づく社会制度や国を作ることをめざす人々や、彼らの運動のことです。
第2次石油危機(オイル=ショック)
イラン革命前後の変化や混乱で、イランの原油生産量が大幅に減りました。
その結果、世界中で石油が不足して、第2次石油危機(オイル=ショック)が起き、世界各国が経済的ダメージを受けました。
イラン=イラク戦争
イランでイラン革命が発生した1979年(昭和54年)、イランの隣のイラクではサダム=フセインが大統領に就任しました。
フセインはイラン革命の影響がイラクに及ぶことを恐れ、1980年(昭和55年)にイラン=イラク戦争を起こしました。このとき、イランとの関係が悪化していたアメリカはイラクを支援しました。
イラン=イラク戦争は長びき、1988年(昭和63年)に停戦しました。
湾岸戦争
イラクの財政が悪化したため、1990年(平成2年)にフセインは、石油資源をねらってクウェートに侵攻しました。前のイラン・イラク戦争ではイラクを支援したアメリカでしたが、今度はイラクを非難し、クウェートを支援しました。
こうして、ブッシュ(父)政権下のアメリカが主体となった多国籍軍が派遣され、湾岸戦争が始まりました。多国籍軍の攻撃を受け、イラクはクウェートから撤退しました。
クルド人問題
![難民](https://yurumestudy.com/wp-content/uploads/2022/12/中東の難民.png)
クルド人は独自の国がないままトルコ・イラン・イラクなどに住む民族です。
第一次世界大戦後、負けたオスマン帝国と勝った連合国との間に結ばれたセーヴル条約で、クルド人が住む地域の独立が認められました。
しかし、オスマン帝国をトルコ革命で倒して成立したトルコ共和国が新たに結んだローザンヌ条約により、独立はなくなってしまいました。
1980年以降、クルド人の独立や自治を求める動きが強くなっています。迫害や独立運動の弾圧によって、国をおわれクルド難民となる人も多いです。
近現代・イスラム圏の歴史クイズ
おわりに
今回はここまでです。最後までお読みいただき、ありがとうございました。